新発田城は新発田氏によって築城され、
代々新発田家の居城となっていましたが、
新発田重家が上杉景勝に反旗を翻した為、
景勝に攻められて落城しています。
後に上杉家が会津に移封されて、
溝口秀勝が6万石で新発田に入封。
新発田城は近世城郭として再建され、
3代溝口宣直の頃に完成したという。
「三階櫓」。
新発田城は県唯一の現存櫓が残る城で、
復元された櫓も2棟あります。
三階櫓は平成16年に復元されたもので、
伝統的手法によって再現されたもの。
幕府に遠慮して天守を公称していませんが、
この三階櫓が実質的天守であったようです。
「二の丸隅櫓」。
本丸鉄砲櫓跡に移築されたニの丸櫓。
層塔型2重2階の二重櫓で、
その名のとおり二の丸にあったもの。
「土橋門跡」。
本丸と二の丸を結ぶ帯曲輪への入口で、
薬医門が建てられていました。
左右には遺構として土塁が残っており、
当時の雰囲気は感じられます。
「堀部安兵衛武庸像」。
堀部安兵衛は赤穂浪士の一人で、
高田馬場の決闘でも知られています。
父中山弥次右衛門は新発田藩士でしたが、
故あって浪人となりました。
安兵衛は父と共に江戸に出ており、
直心影流堀内道場に入門して、
剣術の才能を開花させました。
同門菅野六郎左衛門が決闘する事となると、
助太刀を買って出て3人を斬り、
この評判を聞いた赤穂藩士堀部金丸は、
安兵衛を婿養子に迎えてます。
そして松の廊下での刃傷事件が起こり、
赤穂藩は御取潰しとなってしまい、
安兵衛は赤穂浪士の一員となりました。
「本丸表門」。
元々の位置に現存する唯一の木造建築物。
なまこ壁の美しい立派な二重櫓門です。
「新発田藩初代藩主 溝口伯耆守秀勝候像」。
表門を入るとある初代藩主溝口秀勝の銅像。
始め丹羽長秀に仕えていましたが、
織田信長の直臣となって5000石を拝領。
本能寺の変の後は羽柴秀吉に味方し、
その後に丹羽長秀に再び仕え、
大聖寺4万4000石を与えられます。
後に独立して新発田6万石を与えられ、
廃城となっていた新発田城を再建。
関ケ原の戦いで東軍に属し、
所領を安堵されました。
「陸上自衛隊新発田駐屯地」。
新発田城は廃城後に陸軍に接収され、
歩兵第16連隊の兵舎となっており、
現在も陸上自衛隊の駐屯地となっています。
この歩兵第16連隊は日清戦争から、
後の大東亜戦争まで、
激戦には必ず参戦した精鋭部隊で、
軍功も大きく戦死者も多かったという。
また軍隊でありがちな私的制裁が、
全くなかったともされています。
「辰巳櫓」。
復元された二重櫓。
堀部安兵衛の父中山弥次右衛門は、
この辰巳櫓の管理を任じられていましたが、
失火によるボヤ騒ぎを起こしてしまい、
その責で浪人になったとされます。
焼失させてしまった説もありますが、
その後も辰巳櫓は存在していますので、
焦がした程度だったのでしょう。
当時の藩主4代溝口重雄は、
他藩から剣客や学者を多く召し抱えており、
そのあおりで浪人になったのではと、
現地ガイドさんが言ってました。
城跡公園隣接のアイネスしばたへ。
「義士堀部安兵衛誕生之處」碑。
堀部安兵衛の誕生地。
ここは二の丸跡のようです。
新発田藩に隣接する会津藩は親藩であり、
新発田藩とはなにかと因縁がありました。
例えば塩止騒動という事件で、
会津商人の蝋燭と新発田商人の塩を、
物々交換する仕組みがありましたが、
時代と共に蝋燭と潮の価格不均衡が生じ、
物々交換が停止してしまいます。
これに会津藩が反応し、
塩を止めるのは敵対行為であると、
新発田藩に抗議して幕府にも訴えました。
親藩の訴えに外様の新発田藩は分が悪く、
藩の存亡の危機に発展。
これに藩に恩義ある藩士の井上久助が、
自分の塩横領が原因と一手に罪を被り、
井上の処刑によって危機を回避しています。
会津藩は新潟諸藩を反薩長に統一させる為、
新発田藩の動向を探っており、
また圧力をかけていました。
藩主や前藩主の会津通過の際には、
藩兵を新発田まで同行させ、
そのまま滞在して監視しています。
会津だけでなく旧幕軍や仙台藩からも、
新発田藩は強い圧力を受けており、
半ば強引に奥羽越列藩同盟に加盟。
軍資金や兵糧等の提供の他、
前線への出兵も催促され、
藩主の人質未遂事件も発生しましたが、
新発田藩はのらりくらりの態度で、
前線への出兵を遅らせました。
この態度に列藩同盟軍600人が、
新発田城を包囲。
出兵しなければ総攻撃を掛けると脅し、
新発田藩は仕方なく出兵することになり、
米沢藩士の監視が付けられています。
後に新政府軍による北越侵攻が開始され、
新発田藩は新政府軍に寝返る事になり、
新政府軍として列藩同盟軍と戦い、
裏切り者と罵られる結果となっています。
新発田藩は同盟への参加中、
新政府軍に密使を送っており、
やむを得ない状況を説明しています。
上記のような遺恨もあり、
会藩の為に戦う気にはなれぬのが実情。
元々勤皇の盛んな藩だったようですので、
裏切者の汚名を着せるのは、
可哀想かもしれません。
【新発田藩】
藩庁:新発田城
藩主家:溝口家
分類:10万石、外様大名
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