和久浦は戸数60戸程の漁村だったようで、
この浦で採れる雲丹は品質が良く、
宝暦元年の頃より15~60歳迄の漁師は、
毎年4月中旬に塩雲丹三合を上納したという。
「和久浦」。
小さな漁港には小舟がちらほら。
近くにある道の駅北浦街道ほうほくの北側に、
少し大きな漁港が整備されていますので、
そちらの方に漁船が碇泊しているようで、
こっちの小さい港はウニやサザエ… 続きを読む
「宿場町」タグアーカイブ
下関市豊北町 矢玉浦
矢玉浦は古くは大物ノ浦と称しましたが、
蒙古襲来の際に浦の者が矢や玉を献上し、
それ以降は[矢玉]と呼ばれたという。
それ程大きくない漁村でしたが、
江戸時代中期以降より海運業が盛んに行われ、
赤間関街道北浦道筋の宿場にもなって、… 続きを読む
下関市豊北町 二見浦
二見浦は響灘を望む小さな漁村ですが、
赤間関街道北浦道筋の海側の阿川ルートと、
内陸の滝部ルートの合流地点であった為、
宿場としても機能していたようで、
戸数は60~70戸もあったという。
「二見浦」。
小規模な沿岸漁業を主とする二見漁港は、
魚の他にサザエ漁などが行われており、… 続きを読む
福岡県北九州市 大里宿跡
大里宿は細川家小倉藩初代藩主細川忠興が、
本州の渡航に最適であると設置した宿場。
当時は本州への渡航は小倉で行われた為、
城下に大名行列が集中していましたが、
これを嫌う藩により大里宿が開かれてると、
大名達は大里宿で渡航するようになり、
江戸時代中期以降は約8割の大名が、
大里宿から渡航するようになります。
「長崎街道 … 続きを読む
福岡県北九州市 常盤橋と小倉宿跡
常盤橋は小倉藩が細川家であった時代に、
城下の紫川東側と西側を結ぶ橋として、
架設されたものとされています。
長崎街道の他に、中津街道、秋月街道、
唐津街道等、九州各地の諸街道は、
この常盤橋に繋がっており、
各街道の起点となっています。… 続きを読む
下関市菊川町 田部市跡
田部は赤間関街道北道筋の市場町。
慶長15年(1610)には32軒の市が並び、
月に1度の市が開かれていたとされ、
江戸時代中期には市屋敷は43軒となり、
幕末まで変化なく繁栄していました。
現在もそれ程の変化がないようで、
築100年以上の家屋も残っており、
古い街並みを残しているようです。
菊川町田部周辺。緑の線が北道筋。
青でぼかした辺りが田部市跡。
「田部市跡」。
古い家屋が多く残る田部の街並み。
街道沿いに市が開かれていたようです。
「… 続きを読む
下関市長府 長府宿跡
長府宿は赤間関宿に至る最後の宿場で、
長府藩の城下町でもありました。
「御国廻御行程記 長府」。
長府周辺。緑の線が街道筋。
青でぼかした辺りが宿場のあった場所。
赤間関宿から海岸線を進んだ街道は、
前田から内陸の野久留米街道を通って、
長府の城下にたどり着きます。
宿場は南之町… 続きを読む