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つづき。
「興源院殿慈雲紹蔭大居士之塔」。
5代藩主立花貞俶の墓。
立花帯刀家当主立花茂高の次男に生まれ、
旗本立花弾正家の養子となっていますが、
柳河藩4代立花鑑任が継嗣なく死去した為、… 続きを読む
玉毫寺は小城藩3代鍋島元武の菩提寺で、
その死後に創建された黄檗宗の寺院ですが、
開山は本人の元武となっています。
元武は2代鍋島直能の次男として生まれ、
嗣子に指名されていましたが、
17歳で疱瘡を患って顔にあばたが残り、
人前に出るのを恥じるようになりました。… 続きを読む
法雲寺は黄檗宗の中本山格の寺院。
その前身は真言宗の長安寺でしたが、
狭山池の堤防の決壊で流されてしまいます。
後に曹洞宗の僧宗月が観音像を掘り出し、… 続きを読む
永慶寺は郡山藩柳沢家の藩祖柳沢吉保が、
甲府に建立した柳沢家の菩提寺で、
次代の柳沢吉里が郡山藩に移封されると、
同じく郡山に移転しました。
「山門」。
山門は… 続きを読む
小笠原忠幹は小倉戦争直前で病死。
有事ということでその死は伏せられ、
忠幹の遺骸は密かに城内に埋められました。
後に熊本藩らの撤兵で孤立した小倉藩は、
小倉城を自焼させて城下から田川まで撤退。
香春を仮藩庁としました。
未だ長州藩と交戦状態にある小倉藩は、
落城した小倉城より忠幹の遺骸を掘り返し、
安全な場所への埋葬を計画。… 続きを読む