小笠原忠幹は小倉戦争直前で病死。
有事ということでその死は伏せられ、
忠幹の遺骸は密かに城内に埋められました。
後に熊本藩らの撤兵で孤立した小倉藩は、
小倉城を自焼させて城下から田川まで撤退。
香春を仮藩庁としました。
未だ長州藩と交戦状態にある小倉藩は、
落城した小倉城より忠幹の遺骸を掘り返し、
安全な場所への埋葬を計画。… 続きを読む
福岡県田川郡 碧巌寺/小笠原忠幹仮埋葬地
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小笠原忠幹は小倉戦争直前で病死。
有事ということでその死は伏せられ、
忠幹の遺骸は密かに城内に埋められました。
後に熊本藩らの撤兵で孤立した小倉藩は、
小倉城を自焼させて城下から田川まで撤退。
香春を仮藩庁としました。
未だ長州藩と交戦状態にある小倉藩は、
落城した小倉城より忠幹の遺骸を掘り返し、
安全な場所への埋葬を計画。… 続きを読む
長州に逃れた中山忠光は潜伏先を転々とし、
田耕の大田新右衛門宅に2ヶ月弱程潜伏し、
その後は更に奥地の四恩寺に向かいます。
これは僕なりの推測なのですが、
脱走を繰り返して辺りを歩き回る忠光に、
幕吏の追求を恐れた長府藩の俗論派は、
四恩寺に座敷牢… 続きを読む
小城鍋島家の墓所は星巖寺。
境内にある五百羅漢が有名な寺院でした。
「星巖寺 楼門」。
別名龍宮門とも呼ばれるように、
龍宮城のような外観をしています。
嘉永5年に竣工したもので、
外見は中華風ですが造りは木造の和風様式。
小城藩が長崎警護… 続きを読む
遊撃軍は来島又兵衛が組織した部隊で、
禁門の変では来島が戦死する程奮戦。
来島の死後は石川小五郎の指揮の許で、
いち早く功山寺挙兵にも参加しました。
内訌戦の大田絵堂の戦いの後には、
高杉晋作が総督となっていますが、
正式に藩から任命されたわけではなく、
事実上の総督であったようです。… 続きを読む