下関市竹崎町 白石正一郎旧宅跡

竹崎の商人白石正一郎小倉屋は、
酒、たばこ、米、お茶の卸や、
質屋、造酒屋も経営した豪商とされています。

しかし実際は長州藩の商いは無く、
孫藩の清末藩御用商人だったようで、
豪商というほどでもありませんでした。
最も儲かる北前船交易には参加する事が出来ず、
対岸の小倉門司との交易が主だったという。

とはいえ薩摩藩の御用達も行っていたようで、
新事業にも積極的に参入したようですが、
おいしい話は本藩御用商に取られるなど、
力関係で煮え湯を飲んだりしたようです。

白石は商売の傍らで国学に傾倒しており、
下関に訪れる尊攘志士らの多くは、
白石の小倉屋に厄介になっており、
小倉屋には坂本龍馬西郷隆盛平野國臣等、
約400人の志士が訪れたという。

そんな白石が惚れこんだのが高杉晋作で、
白石は奇兵隊の創設にも深く関わり、
いち早く弟白石廉作と共に入隊しました。
文久3年7月には士分に取り立てられており、
初期の奇兵隊財政の殆どを負担していて、
慶応元年頃にはこれが経営を悪化させて、
小倉屋は破産寸前の状況だったようです。

晋作もそういう状況を憂いており、
藩政府に救済を嘆願していますが、
元々清末藩の御用商であり、
小倉との交易を主としていた小倉屋は、
戦争の影響から建て直しは到底不可能。
家屋敷を売却するまで追い込まれましたが、
晋作の葬儀は白石が執り行っています。

やがて白石は小倉屋をたたんでおり、
藩や明治政府、世話になった者達が、
白石を使い捨てにしたとされていますが、
僕はそうは思いません。
白石は自らの意思で商いを辞め、
赤間神宮の宮司になったのだと思います。
理由としては維新後にもう一度、
その生業であった小倉との交易を、
復活させる気力が無かったのではないか?

ある程度のポストも用意されていた筈ですが、
白石がそれを断ったのは、
自分の役割を悟ったのではないか?
また新政府に不満を覚えたとも考えられます。
実際に国学、尊皇を志とする白石にとって、
安徳天皇を奉る赤間神宮の宮司になることは、
本望だったのではないか?

理由は色々と考えられますが、
僕が思うに商売への情熱がなくなり、
今更不慣れな土地で新しい仕事をするよりは、
地元で奇兵隊とも関係が深く、
天皇を奉っている赤間神宮の宮司に就任し、
余生を静かに過ごそうと思ったのだと思います。

そんな白石正一郎の小倉屋が合った場所は、
現在中国電力㈱下関営業所となっています。

白石正一郎旧宅跡」、
奇兵隊結成の地」碑 。
敷地内に跡碑が設けられていますが、
その建立は昭和に入ってから。
昭和37年に地元の有志が中国電力に、
白石正一郎の碑を建てるように嘆願。
この頃は白石の名は殆ど知られておらず、
当時の中国電力の対応は、
「白石正一郎なんて名前は聞いたことがない。
 無名の人物の碑を表に設置できない

と裏陰にひっそりと建立されました。
昭和47年には「奇兵隊結成の地」碑も、
建立されていますが裏陰のまま。

後に白石の名が全国的に知られるようになり、
昭和62年にこれらの碑が表側に移されて、
現在の形となりました。

この碑に面した国道191号線あたりが、
当時の海岸線で小倉屋の浜門があった場所。
下の写真が当時の小倉屋の浜門です。

海側から白石邸(小倉屋)に入る門で、
幾多の志士達がこの門をくぐっています。

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 白石正一郎の奉納した大鳥居があります。
下関市阿弥陀寺町 真木菊四郎/白石正一郎の奥都城
 白石正一郎の墓所のひとつ。
白石正一郎の銅像を建てたらどうだろうか?
 白石正一郎の銅像が無いんですよね。

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