皇居の裏門である乾門から、
首都高代官町料金所前の横断歩道を渡り、
東京国立近代美術館工芸館へ。
敷地に北白川宮能久親王の銅像があります。
「北白川宮能久親王銅像」。
下関条約で日本のものとなった台湾に、
征討近衛師団長として出征しますが、
現地でマラリヤ感染して戦病死してしまい、
皇族初の外地殉職者となった人物。
彼はかつて輪王寺宮公現入道親王と称し、
上野の寛永寺の貫主でした。
徳川慶喜の依頼で慶喜の助命と東征中止を、
東征大総督有栖川宮熾仁親王に訴えますが、
一蹴されて上野戦争に巻き込まれます。
戦場を脱出して長鯨丸で平潟に上陸し、
会津、米沢を経て仙台藩に保護され、
奥羽越列藩同盟の盟主に擁立されました。
その後に仙台藩の降伏を受けて、
降伏文を平潟口総督四条隆謌へ提出。
京都に護送さてて蟄居処分となります。
明治2年に許されて伏見宮に復帰。
プロセインに留学して軍事を学び、
早世した弟の北白川宮家を相続します。
留学中、貴族の未亡人と婚約しますが、
政府の反対により断念。
帰国後は陸軍に入り中将まで昇進して、
上記の台湾派遣に至りました。
北白川宮能久親王銅像を拝見した後、
来た道を戻って東へ進み、
御三卿一橋徳川家の屋敷跡へ向かいます。
毎日新聞本社ビルの前を通って進み、
皇居東御苑の平川門を過ぎた交差点北西側。
ここに一橋徳川家の屋敷がありました。
「一橋徳川屋敷跡」。
石碑があったようですが見当たらない。
ビル建設工事で撤去されていました。
ここから気象庁本庁あたりまでが、
一橋家の屋敷だったようです。
「一ツ橋」。
一橋徳川家の名の由来である橋で、
もちろん当時のものではありません。
徳川家康が江戸城に入城した際、
大きな丸木が1本架けられていたという。
一橋家は徳川吉宗の四男宗尹を家祖とし、
御三卿として将軍家に後嗣がいないときは、
他の2家と共に後嗣を出す資格を有し、
御三卿の中で唯一将軍を出しています。
※11代徳川家斉と15代慶喜。
また同じく御三卿の田安徳川家は、
その血を残す事が出来ず、
一橋家から養子を貰う事になった他、
尾張藩、福井藩、高須藩等の親藩や、
福岡藩黒田家にも養子を出しています。
しかし当の一橋家当主は4代以降実子無く、
他家から養子を貰い続けるという、
不思議な家系となりました。
幕末の当主慶喜も水戸からの養子で、
彼は子を多くのこしていますが、
後に将軍となって一橋家から抜けた為に、
次代は元高須藩の徳川茂徳が継いでいます。
何も無かった一橋邸跡より、
来た道を戻って北の丸公園へ。
「平川橋と平川門」。
一橋邸の堀向かいにある門で、
皇居東御苑への入口のひとつ。
三ノ丸正門で御三卿登城口でもあります。
田安家、清水家の屋敷のある北の丸からは、
北桔橋門の方が近いのですが、
そこは大奥へ続く門ですので、
わざわざ迂回していたのでしょう。
平川橋は和田倉橋と同じく木橋です。
毎日新聞本社ビル前の交差点より北へ進み、
清水濠の外側に沿って清水門へ進む。
「清水門」。
清水徳川家の名の由来になった門。
屋敷がこの清水門に近かったので、
清水徳川家と呼ばれました。
徳川家康が江戸に転封となった当時、
清水寺という寺があったらしく、
そのことから清水門と呼ばれたようです。
清水家は9代徳川家重の次男重好を祖とし、
将軍家に後嗣がいないときは、
後嗣を出す資格を有しましたが、
この家から将軍家を継いだ人物はいません。
清水家は成立から維新を迎えるまで、
当主の実子が相続することはなく、
全ての当主が養子であったようです。
初代の重好に継嗣が無く、
当主の不在が続いた後、
将軍家の徳川敦之助が当主となりますが、
翌年に病死してしまいます。
清水家はそのまま当主の空席が続き、
再び将軍家の徳川斉順が迎えられて相続。
ですが紀州藩世子に空席ができたために、
斉順は紀州藩の世子となりました。
清水家は斉順異母弟徳川斉明が継ぎますが、
その斉明もわずか19歳で病死した為、
同じく異母弟徳川斉彊が相続。
しかし紀州藩主となった斉順が病死し、
急遽紀州徳川家の家督を継ぐこととなり、
三度も当主不在となりました。
その後は20年の当主不在を経て、
水戸藩より徳川昭武が迎えられるのですが、
結局、昭武も水戸徳川家を継いでいます。
清水門から北ノ丸へ。
北の丸跡は北の丸公園となっています。
「吉田茂像」。
石段を登った先にあったのは、
戦後の混乱期の総理大臣吉田茂の銅像。
サンフランシスコ平和条約や、
バカヤロー解散で知られています。
戦後に総理大臣を退任して、
もう一度就任したのはこの吉田茂と、
今の安倍晋三だけらしいです。
「日本武道館」。
北の丸公園の北側は日本武道館。
東京オリンピックの柔道競技会場として、
新規に建設されたもので、
現在も武道競技大会の会場となっている他、
ビートルズの来日コンサート以降、
コンサート会場としても使用されています。
「ライブハウス武道館へようこそ!」と、
BOØWYの氷室京介の言葉には、
世代的に少々感ずるものがありますね。
訪問時は[けやき坂46]の、
イベントらしきものをやってました。
「田安門」。
たぶん一般の東京都民には、
馴染みのある門なのではないでしょうか?
武道館のコンサートへ行くには、
九段下駅からこの田安門を通るからです。
名の由来は周辺の地名田安郷に因む。
田安徳川家は吉宗の次男宗武を家祖とし、
将軍家に後嗣がいないときは、
同じく後嗣を出す資格を有しましたが、
田安家も将軍家を継いだ人物はいません。
但し維新後の徳川宗家当主は、
7代当主亀之助(家達)が継いでいます。
初代宗武の子で白河藩3代の松平定信は、
老中として寛政の改革を行った人物。
桑名松平家や松代真田家に養子を出し、
その血脈は残っているものの、
田安家自体の血統は2代で途絶えており、
一橋家から養子を貰っています。
北ノ丸は近衛師団の兵営地となった為、
両家の屋敷遺構は皆無。
跡碑くらいあってもよさそうですが・・。
古地図で見る田安、清水の両家の屋敷。
現在の武道館を割るように通りが伸び、
その両側に屋敷が建てられていたようです。
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