延岡城は高橋元種が築城された平山城。
元種は関ヶ原の戦いで西軍に与し、
大垣城に篭城していましたが、
内応した兄秋月種長に従って降伏し、
その所領を安堵されています。
延岡城は始め縣城と呼ばれたようで、
縣藩5万石の藩庁となっていましたが、
千姫事件の煽りで元種は改易となり、
幕府領を経て有馬直純が入封。
この有馬家時代に延岡に改名しており、
以後は延岡城及び延岡藩となっています。
有馬家延岡藩3代藩主有馬清純の時代に、
領民1400余名が逃亡する事件が発生。
清純はこの件の責任で転封となり、
譜代大名三浦明敬の入封を経て、
牧野成央が入って2代続き、
代わって内藤政樹が7万石で入封すると、
内藤家で藩主家が定着しました。
「北大手門」。
平成5年に復元された北大手門。
城跡は公園として整備されていますが、
復元された木造建築物はこの門のみ。
「内藤家墓所」。
北大手門脇には内藤家の墓所があります。
元々は城下の三福寺にありましたが、
五ヶ瀬川の河川改修でここに改葬。
城と藩主家墓所の訪問には好都合ですが、
残念ながら内部は非公開。
とはいえ拝見できる方法はありました。
「千人殺し」。
延岡城といえばこの高石垣。
ある特定の石を外すと全て崩れ落ち、
千人を殺す事ができるとされる石垣。
この石垣が崩れたとしても、
とても千人は殺せはしないと思いますが、
仮にこの石垣を崩れたとすれば、
その石は大手門の坂を転がるでしょうから、
その坂に千人以上が大挙して押し寄せれば、
全くの不可能ではないかも?
確かにこの規模の近世城郭にしては、
城門が虎口となっていないので、
これを前提にしていたかもしれません。
千人殺しの石垣に沿って本丸へ。
「二階門櫓跡」。
本丸への正門のようで、
二階櫓門が建てられていたとされます。
「本丸跡」。
本丸はそれ程広くは無い。
御殿は二ノ丸にあったのしょう。
因みに二ノ丸跡の写真は撮り忘れましたが、
何の変哲も無いただの広場でした。
「内藤政挙公」像。
最後の延岡藩主内藤政挙の銅像。
廃藩置県後の諸藩藩主家は東京に移住し、
華族となってそのまま定住していますが、
政挙は延岡に戻って西南戦争や延岡大火の、
復興活動に尽力しています。
その他にも各学校の設立や電力事業、
工場誘致等に貢献し、
延岡市の経済的基礎を築きました。
「天守台跡」。
本丸奥の山頂は天守台跡とされていますが、
天守が建っていた天守台ではありません。
「鐘撞堂」。
天守台には鐘撞堂が設置され、
明治11年より時を知らせています。
現在も毎日6時、6時、10時、12時、
15時、17時の計6回鐘が、
決まって鳴らされており、
訪問時も響きを聞かせてくれました。
かつては太鼓櫓が建てられていたようで、
以前は太鼓で時を知らせています。
「三階櫓跡」。
天守台跡の裏手(東側)には、
三階櫓が建てられていました。
現在は石垣のみが残されており、
後藤勇吉之碑が建てられています。
後藤は航空黎明期の民間パイロットで、
日本一周飛行を成し遂げた飛行冒険家。
昭和3年の墜落事故で死去しています。
「内藤家墓所内部」。
先程の藩主墓所内部を拝見出来る方法は、
この石垣上より見下ろす事で、
ここから内藤家墓所が見渡せます。
移転した墓所を非公開にしている意味は、
全くわかりませんが・・。
延岡藩の7代藩主内藤政義は、
彦根藩藩主で大老の井伊直弼の異母弟で、
さらに6代藩主内藤政順の正室は直弼の姉。
延岡藩は彦根藩と非常に関わりが深く、
井伊直弼が彦根藩主に就任する以前、
養子縁組で政義と共に江戸に向い、
結果的に政義が選ばれています。
もし仮に直弼が選ばれていれば、
歴史は変わっていたかもしれませんね。
政義は桜田門外の変の2年後に隠居。
家督を11歳の養嫡子政挙に譲っています。
延岡藩は譜代大名として幕府に従い、
東禅寺警護、長州征伐への参加、
鳥羽伏見の戦いには幕軍として参戦を行い、
新政府より朝敵とされてしまいますが、
佐賀藩の取り成しで許されました。
西南戦争では旧士族が延岡隊として参加。
1400余名が西郷軍に合流しています。
西郷軍最後の組織的戦闘は延岡で行われ、
※西郷が唯一直接指揮を行っています。
これに敗れた西郷軍は軍を解散。
延岡隊は新政府軍に降伏しています。
【延岡藩】
藩庁:延岡城
藩主家:三河内藤宗家
分類:7万石、譜代大名
■関連記事■
・東京都港区 青山霊園/内藤政義墓所
延岡藩7代藩主内藤政義の墓。
・宮崎県延岡市 南洲翁寓居跡
西郷が軍を解散したとされる宿陣所の跡。
・福岡県久留米市 山川招魂社
久留米に官軍の病院が置かれました。
・大分県佐伯市 佐伯城跡
近隣の佐伯藩毛利家の居城跡。