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福井県での現地休暇。
宿は福井市ですが少し遠出して、
大野市まで足を延ばします。
天気は生憎の雨。
それでもなかなか来る機会も無いので、
頑張って大野城に登ってきました。
「越前おおの結ステーション」。
物産販売所や観光案内所、平成大野屋等、
大野観光の拠点にちょうどいい施設。
観光地なのに無料駐車場が嬉しいですね。
駐車場脇にあるランドマークの時鐘は、
美濃市の川湊灯台がモデルとのこと。
現在は電波時計が設置されてはいますが、
上部に半鐘も設置されており、
イベントや大火記念日には、
これが鳴らされるとのこと。
「大野藩洋学館跡の碑」。
大野藩は越前内陸の4万石の小藩ながら、
洋学振興策を行った事で知られており、
安政3年には洋学館を開設。
大坂の適塾の塾頭である伊藤慎蔵を招き、
藩士に蘭学を教えて最先端の蘭学研究や、
蘭語翻訳書や専門書の出版も行いました。
この洋学館には留学生が集まってきており、
緒方洪庵の子らも洋学館に留学しています。
「伊藤慎蔵先生顕彰碑」。
伊藤慎蔵は6代目適塾塾頭を務めた人物。
※適塾の塾頭は大村益次郎や、
福沢諭吉等も務めています。
伊藤は萩の町医者の子で、
大坂に遊学して適塾に入門し、
一時は素行不良から破門されていますが、
洪庵に許されてからは勉学に励み、
塾頭まで任されるに至りました。
安政2年に招かれて洋学館教授となり、
蘭学を教えて翻訳もこなしています。
文久元年に藩内攘夷派に狙われた為、
藩を辞して妻の実家の名塩で蘭学塾を開き、
維新後は兵庫洋学館や、
大坂開成所の教授を務め、
東京に移り文部大助教を務めた後、
工部省に出仕。
明治13年に死去しています。
「広瀬病院」。
越前おおの結ステーション北側にある病院。
かつての洋学館があった場所。
「大野市立有終西小学校」。
二ノ丸跡、三ノ丸跡は現在、
大野市立有終西小学校の敷地です。
御殿が建てられていたという。
「柳廼社」。
幕末の藩主土井利忠を祀る神社で、
社名も利忠の雅号柳涯に由来しています。
利忠は財政の逼迫していた大野藩を、
倹約、地場産品の奨励、鉱山経営など、
あらゆる手段を講じて財政再建を図り、
蘭学奨励や軍制洋式化、蝦夷地開拓を行い、
大野藩の藩政改革を成功させます。
その遺徳を讃えて明治15年に建立。
改革に貢献した藩士らの顕彰碑が並びます。
「良休翁之碑」。
大野藩士内山良休の顕彰碑。
財政改革の要が藩営商店の大野屋で、
煙草等の特産品の直営店舗を大坂に開き、
最盛期には全国に37店舗を出店。
この大野屋を取り仕切っていたのが良休で、
勝手方一向奉行に抜擢され、
その経営手腕で財政再建に貢献しました。
「貫斎先生之碑」。
大野藩士内山隆佐の顕彰碑。
隆佐は良休の実弟で、
兄と共に藩政改革に貢献。
蝦夷地開拓などの事業の中心人物でした。
この蝦夷地開拓の為に藩船大野丸を建造し、
北方貿易及び警備兵運送を行っています。
「矩倫翁之碑」。
大野藩士中村重助矩倫の顕彰碑。
家老に抜擢されて藩政改革を主導。
中村兄弟を登用して現場指揮を任せました。
彼ら優秀な首脳陣が大野藩を再生しますが、
根本にあったのが利忠の[更始の令]。
利忠が直筆で藩士達に訴えた改革令で、
藩財政及び藩士の家計は破綻状態で、
ここまでなったのは我々の責任だと思う。
今後は君臣上下一体で倹約を旨とし、
不正を許さず、気がついたことかあれは、
直接でも書状でも申し出てもらいたい。
家臣の力なくして未来はない。
という趣旨の令状のようで、
利忠が藩士を集めて読み上げると、
家臣一同は感涙に咽んだという。
こういうトップの直声は、
時に臣下を本気にさせるもので、
全藩士が一丸となり、
改革に取り組む事になります。
次回はいよいよ天空の城[大野城本丸]へ。
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・福井県大野市 善導寺/大野藩主土井家墓所
大野藩主土井家の墓所。
・福井県坂井市 三国湊
大野屋の支店建屋が残されています。
・福井県福井市 福井城跡
福井藩越前松平家の居城跡・
・福井県勝山市 越前勝山城跡
隣藩。かつては共に福井藩の支藩でした。