新潟県長岡市 長興寺/長岡藩家老家墓所

山本帯刀家長岡藩世襲家老5家のひとつ。
筆頭家老家稲垣平助家に次ぐ家格を誇り、
軍師山本勘助の弟山本帯刀左衛門が、
その祖先であると伝えられています。

幕末の当主である山本帯刀義路は、
門閥ながら河井継之助慶応改革に協力。
北越戦争でも大隊長として戦いました。
この山本帯刀家の墓所が長興寺にあります。

長興寺」。
長岡移封以前の大胡藩より、
藩主家に庇護された曹洞宗の寺院で、
大胡藩時代より家老家の菩提寺でした。
牧野家が長岡に移封した際に、
寺僧であった天室恵鏡も同行し、
長岡に長興寺を建立しました。
※以前の長興寺も前橋市に残っています。


山本家墓所」。
本堂南側の墓地に山本家の墓所があります。
幕末の大隊長山本帯刀義路よりも、
次代の山本五十六の方が有名なようで、
※連合艦隊司令長官。
その五十六の墓もここにあります。


大梁院殿忠嶽義戦居士(左:帯刀義路)」、
大義院殿誠忠長陵大居士(右:五十六)」。
帯刀義路は長岡藩士安田渡の長男でしたが、
父の渡は山本帯刀家からの養子で、
帯刀家当主山本義和に継嗣が無かった為、
藩命によって山本家の養子となりました。
河井継之助が慶応改革に乗り出すと、
門閥の立場にあったにもかかわらず、
これに協力して河井を助けています。
※門閥の帯刀が味方となった事で、
 河井の改革はスムーズに成功しました。

戊辰戦争においては抗戦派であり、
長岡藩が新政府軍との戦いを決意すると、
大隊長に就任して常に先陣にあり、
今町の戦い八丁沖の戦いで戦い、
河井が負傷して長岡から退く際には、
八十里越鞍掛峠殿軍を務めています。
長岡勢は米沢に落ち延びますが、
山本は精鋭40数名と共に会津に向かい、
若松城下で遊撃隊として戦います。

慶応4年9月8日。
山本隊は濃霧で敵味方区別がつかぬ中、
新政府軍に包囲されて銃撃を受け、
多くの兵が戦死してしまい、
山本も宇都宮藩兵に捕らえられました。
越後口総督府は山本の才を惜しみ、
恭順すれば命は助けると告げますが、
山本はこれを固辞し、
藩主われに戦いを命ぜしも
 未だ降伏を命ぜず」と、
謝罪と恭順を拒否します。
これにより山本は斬首されました。

山本帯刀家は家名断絶となりましたが、
明治16年河井家と共に再興を許され、
山本の長女玉路が女当主となります。
しかし玉路は結婚しなかった為、
これを憂いた旧藩主牧野家の口添えで、
長岡士族高野家から養子となったのが、
後の連合艦隊司令長官山本五十六でした。


晦堂墓」。
長岡藩士酒井貞蔵の墓。
山本帯刀家墓所の傍らにあります。
藩校崇徳館教授で藩の中立方針に異を唱え、
斬姦状を書いて河井の暗殺も企てましたが、
開戦後は潔く戦ったようで、
片田村の戦いで戦死しました。


稲垣平助墓」。
筆頭家老稲垣平助茂光の墓で、
累代墓となっている模様。
長興寺は筆頭家老稲垣平助家の墓所もあり、
本来なら格上の稲垣平助家の墓所が、
山本家より広くとられているはずですが、
幕末当主の墓が片隅にひっそりとあるだけ。
稲垣平助家は2千石を知行していましたが、
河井の慶応改革によって500石に激減。
戊辰戦争では勤皇恭順を唱えましたが、
開戦に決すると屋敷に火をかけて出奔し、
江戸に逃れて新政府軍に出頭しています。
戦後は長岡に戻って藩政に関与しますが、
戦いを逃げた卑怯者と誹謗中傷され、
小林虎三郎らが藩政を支えました。
ちなみに六女杉本鉞子は、
日本人初のコロンビア大学講師です。

長興寺の山本帯刀、酒井貞蔵、稲垣平助。
一人は抗戦派として戦い、
敗れても降伏を良しとせず斬首。
一人は恭順を説きながらも、
戦いに決すると潔く戦って戦死。
一人は開戦前に逃げ出し、
戦後に戻って罵られる。
三者三様の立場で三様の末路。
長岡藩の縮図のようでもありますね。

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