矢立峠は久保田藩と弘前藩の国境の峠で、
羽州街道の難所でもありましたが、
弘前藩主も参勤交代の際に通過します。
現在の矢立峠は遊歩道となっています。
道の駅やたて峠に車を停めて遊歩道へ。
前日の雨で湿度が高く蒸し暑かったです。
「伊能忠敬 測量隊 記念標柱」。
結構な距離を登ると現れる標柱。
伊能忠敬が第3次測量の際に訪れており、
それを記念して建てられたもの。
測量隊はこの峠越えに大変難儀したという。
「吉田松陰の漢詩」。
さらに先に進むと現れる漢詩の表示板。
吉田松陰は相馬大作を称えた詩を読んでおり、
これを表示板にしたもの。
ここは御休所茶亭跡とのことですが、
いつも思うのですがこういう山中の茶屋は、
夜盗などに狙われなかったのかなぁ?
茶亭跡より南側の道へ。
「明治天皇御忠輦之地」碑。
明治天皇も矢立峠を越えています。
明治14年の東北巡行の際、
弘前から矢立峠を越えて秋田へ向かっており、
馬に跨って進んだようです。
このような道に明治天皇を連れてくるとは、
なかなか政府も酷いものだなと、
実際に行くと思ってしまいました。
「イザベラ・バード記念碑」。
女性旅行家イザベラ・バードも矢立峠を越え、
秋田から弘前へと向かいました。
バードはこの険しい峠を称賛していたようで、
流石は女性旅行家の感性といったところか。
茶亭跡まで戻って北側の道を進む。
「矢立峠一里塚跡」。
江戸の日本橋から176里との事。
「国境矢立杉」。
久保田藩と弘前藩の境に立っていた杉。
江戸時代初期に両藩は国境を巡って対立。
久保田藩は峠を下った矢立杉を国境だとし、
弘前藩は峠が国境であると主張しました。
両藩の国境交渉は難航したようで、
幕府の裁定でこの矢立杉が国境となります。
矢立杉は元禄年間に風折れで株だけとなり、
この周りに杭を打って綱で囲い、
株の真ん中に新しい杉の苗木を植樹しました。
松陰らの見た矢立杉は2代目の杉でしたが、
2代目も昭和に入って伐採されたようです。
現在のものは3代目の杉で大切に育てられ、
すくすくと伸びているようでした。
更に北へ。
たぶん青森県に入っています。
「東北遊日記」説明板。
松陰の漢詩の口語訳が記されていますが、
解り辛いので現代語訳して欲しいですね。
この先より国道に出れるのですが、
車を置いてあるので来た道を引き返します。
暑くてしんどい峠道を歩いていると、
茶屋があったらたぶん寄っていくだろうなと、
ひとりで思いながら帰りました。
■関連記事■
・秋田県大館市 相馬大作事件之地
相馬大作が待ち伏せしていた場所。
・青森県弘前市 吉田松陰来遊の地 附松陰室
松陰と宮部が弘前で訪ねた伊東梅軒宅跡。
・青森県南津軽郡 藤崎宿/川越家跡
弘前から出た2人が宿泊した場所。