山口県山口市 玄済寺/吉敷毛利家墓所③

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つづき。


洞元院殿貫禪一之大居士」。
13代及び15代当主毛利元一の墓。
12代毛利房謙の嫡男として生まれ、
父の死去に伴い家督相続しました。
家臣の子弟教育を推奨したようで、
優秀な者を遊学させるなど、
非常に開明的な当主であったという。
藩内では正義派に属していたようで、
内訌戦では諸隊側に味方しています。
明治3年に養嫡子毛利親直に家督を譲り、
吉敷に隠居していましたが、
親直が離籍した為に再び家督を継きました。

14代親直は病気により離籍した為、
ここに墓はありません。
※玄済寺に隣接する吉敷招魂場に、
 上野五郎として招魂墓があります。
 山口県山口市 吉敷招魂場



従四位勲五等男爵泰徳院殿之墓」。
16代当主毛利重輔の墓。
元長州藩士山本信一の子で、
家督を再封した15代元一の養子となり、
元一の隠居後に家督を相続。
渡米して鉄道技術を学んでおり、
日本鉄道会社の副社長を努めましたが、
明治34年に列車の逆走事故により、
不運にも轢死してしまいした。


正四位勲六等男爵毛利忠三墓」。
17代当主毛利忠三の墓。
右田毛利家11代毛利元亮の次男で、
16代重輔の次女カツヨと結婚し、
婿養子となっていましたが、
養父の事故死により家督を相続。
同じく鉄道技師だったようです。

幕末の吉敷毛利家は正義派であり、
維新に大きく貢献する事となりました。
当主の元一は開明的な人物でしたが、
子に恵まれなかった為に養子を貰います。
最初の養子は謎の離籍をしており、
平民となって西南戦争で戦死。
次に養子となって家督を継いだ重輔は、
事故死という不幸に見舞われました。

追記・・・

吉敷毛利家墓」。
令和4年に大本山総持寺墓地より、
18、19代当主と一門の墓が、
改葬されたようです。

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