下関市南部町 綿屋弥兵衛宅跡

禁門の変で直接戦火を交えた薩長両藩
この両藩を和睦させる為に、
筑前勤皇党(福岡藩)の月形洗蔵らや、
土佐脱藩の坂本龍馬中岡慎太郎が奔走し、
桂小五郎西郷隆盛の直接会談の場が、
赤間関で設けられることになります。

その場所に指定されたのが綿屋弥兵衛宅
慶応元年閏5月1日
坂本龍馬と安芸守衛が赤間関に上陸し、
奈良屋入江和作宅に入った後、
長州藩が指定した綿屋弥兵衛宅に投宿。
閏5月6日
桂小五郎と時田庄輔が赤間関に到着し、
薩摩方の西郷を待ちます。
しかし閏5月21日の夜。
中岡慎太郎のみが赤間関に到着し、
龍馬や桂らの許にやってきて、
西郷を連れて来れなかった事を報告。
これを聞いた桂は失望しました。


綿屋弥兵衛宅跡」。
綿屋弥兵衛宅があった場所は、
山口銀行唐戸支店裏手の駐車場辺り。
薩長同盟の会談が行われる筈だった場所で、
桂ら長州藩側が煮え湯を飲み、
龍馬や中岡が面目を潰された場所ですが、
碑や説明板等は全くありません。
市庁の目の前なのにね・・。

西郷が来訪しない事を知った彼らは、
綿屋弥兵衛宅で善後策が話し合われます。
※メンバーは桂、龍馬、中岡、安芸の他、
 高杉晋作山縣狂介伊藤俊輔

ここで薩摩藩名義の武器購入が発案され、
※この発案は伊藤によると、
 晋作によるものとされます。
これを受けて龍馬や中岡が京都に赴き、
西郷や小松帯刀にこれを依頼。
実質的な同盟への動きが始まりました。

このような重要な場所ですが、
上記のように碑や説明板はありません。
駐車場ですので設置は可能な筈。
なんとかして欲しいものです。

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