井上馨」タグアーカイブ

下関市吉田 東行庵の手栽の碑

晴天の休みの日。
色々と史跡を訪問したりしたいのですが、
先立つものが無ければ遠くに行けない。
そこで久々に東行庵に行ってみました。


東行庵」。
東行庵は、いつ行っても季節の花々が咲いています。


東行池には錦鯉が泳いでいますので、
子供達も退屈じゃない。


高杉晋作像」。
久々ですがまだまだピカピカですね。
変な言い方ですが、早く劣化しないかなって思う。
銅像は… 続きを読む

防府市 富海の船蔵

防府市東部にある富海は小さな漁村でしたが、
山陽道の宿場町であり、上方への玄関でした。


赤丸が富海。
左側の江泊山の向こう側が三田尻湾です。
ここが上方への玄関と云われる所以は、
飛船」と呼ばれる客船の拠点で、
ここから海路上方へ向かうのが一番早かったから。
この「飛船」は高速で航行することができました。

長州のほとんどの志士がここから上方を目指しましたし、
他国から長州に来る志士のほとんどがここに上陸しました。
ここには、伊藤俊輔井上聞多続きを読む

高杉晋作顕彰碑物語⑨(井上馨の演説6)

井上の演説・・・ラスト。
////////⑨

高杉君が馬関へ出た翌日に、諸隊の長官等も意を決して長府を出立し、伊佐まで進んで、五卿方のうち二人を泰じて萩へ進むという手筈であったが、萩政府がこれを拒んだので、二卿も最早毛利父子へ忠告するの道はこれで終局を告げたというので、長府に帰られた。そこで諸隊もいよいよ戦意を決したのである。

萩政府においては、諸隊がかように騒ぐものであるから、万一目下牢舎申付けている前政府員等を奪われてはならぬと思って、前政府員の前田孫右衛門等七人を惨殺してしまった。この報知が馬関へ達したものですから、高杉君は大いに怒って、これはもはや一日も猶予は出来ぬというので、再び兵を進めて、新地の会所を乗取ってしまった。これがちょうど慶応元年正月二日の事であります。続きを読む

高杉晋作顕彰碑物語⑧(井上馨の演説5)

井上の演説はもう少し続きます。
///////⑧/

この和議の時、最も困難なる問題は償金一件であったが、高杉君は、長州が攘夷をしたのは、決して一己の意見でしたことではない、朝廷幕府の命を遵泰した結果であるから、償金を御要求になるならば、幕府に向かって御要求になった方が至当であろうということをしきりに主張したので、この償金一條は止戦條約にもよほど曖昧に記してある。けれども長州政府では、償金を要求されては到底応ずることが出来ないというので、その後、家老井原主計に杉と伊藤を副し、修交使節として横浜に派遣して、四ヶ国公使の意向を探ってみると、四ヶ国の公使は、その償金の事はすでに幕府に要求して、幕府から支払うこととなったからご安心なされと言うたので、井原等も大いに安心して帰りましたが、これは偏に高杉君の功であろうと私は考える。

外国の方はかように始末がつきましたが、幕府の征長軍に対する方針については、藩論が二派に分かれた。その一派は、幕軍が押寄せたならば、防長二国が一致してこれと抗戦し、不幸にして敗戦に終わったならば、君臣共に城を枕にして討死する。また幸にして勝利を得たならば、幕府を倒して尊王の大義を天下に明らかにするという論である。

また他の一派は実際京都に於いて禁門に向かって発砲したことであるから、その罪はどこまでも謝罪しなければ条理が立たぬ、かつ防長二ヶ国の労れた兵をもって天下の兵と交戦したならば、決して勝算はない。故にどこまでも恭順謝罪で押し通して、京師変動の首領等は厳刑に処し、たとえ領地は十萬石に削られても、また君公の御身上に対して難題を申しかけられてもいたしかたない。この際は君を軽しとし社稷を重しとする方針で、どこまでも謝罪をして、毛利家の社稷を存しなければならぬという論であった。続きを読む

高杉晋作顕彰碑物語⑦(井上馨の演説4)

まだまだまだ井上の演説は続きます。
//////⑦//

かように下関は遂に開戦となったものであるから、前田も帰り、私もその跡を追うて山口へ帰りまして、両君公に拝謁して、馬関は必ず敗れます、馬関が敗れたならば、外国艦隊は小郡に来て、陸戦隊を上陸せしめ、そうして山口に侵入するに違いない。ついては私に一大隊の兵を貸して下さい。そうすれば小郡を死所と定めて、二日間は必ず止めますから、その間にお覚悟なさるようにと言うたので、遂に私に第四大隊を管轄するようにという命令が下った。その時、高杉君も罪を許されて山口に出て、軍務掛とかいうことを命ぜられておったのである。そうして伊藤も山口におったので、三人が小郡を死所と定めて、斃れてやむという精神で外兵を喰い止めようということを誓い、共に小郡に出張することとなった。

私が小郡に出張する時に、小郡代官という事を命ぜられましたけれども、死ぬる場合に代官も何も要るものではないといって、断ろうとしたところが、高杉君が、イヤ断わらぬがよい、君が代官となっておれば、戦をするのに兵隊を繰出したり何かするのに極めて都合がよいからと言うものですから、私も代官の命を受けて小郡に出張致しました。

私が小郡に出張すると、続いて世子公も馬関の軍勢を自ら指揮なさるということで、政務員等を従えて御出張になった。その時私どもは勘場即ち小郡の代官所におって、防戦の部署を定めておりましたところが、その翌朝政務員が代官所へ会合して、しきりに和議の説を仄めかす者があったから、私は大いに憤慨して、未だ戦わざる前には戦論を主張し、戦が始まるとまた和議論を主張するというような無節操な事では、国家が維持されるものではない。諸君はたとえ防長二州は焦土となるとも、どこまでも攘夷を遂行するという明言したではないか、その決心ならば、どこまでも奮戦して斃れて後やむがよい、そうしたならばたとい国が滅びても、後世に至って、長州は頑固ながらもよくその初心を貫いたといって、わずかに面目を保つことが出来ようが、朝には戦論を主張し、夕には和議論を主張するような飄然たる国是では、一国を維持することの出来るものではないという主張で激論に及んだ。続きを読む