長州藩寄組山内家は備後国の国人でしたが、
毛利元就に帰属して尼子勢に対抗し、
その後の毛利輝元の代に家臣となりました。
毛利家の防長減封後もこれに従い、
厚狭郡吉田に4905石を与えられており、
以後は江戸時代を通じ吉田埴生周辺を治め、
歴代当主は家老職などを務め、
幕末の当主は奇兵隊総督となっています。
その寄組山内家の菩提寺は常関寺。
「常関寺本堂」。
実はこの常関寺には以前に訪問済み。
ここは小倉戦争時に野戦病院となり、
戦病死した隊士達の墓があり、
それが目当てでした(記事はこちら)。
屋根に山内家の陰陽一文字がみられます。
その際に本堂裏の羅漢象を拝見しており、
そこに寄組山内家の墓所があったのに、
何故か見過ごしていたようです。
「山内家墓所」。
本堂裏の斜面を登ると現れる山内家の墓所。
毎年太祖山内廣道(19代)の追悼法要が行われ、
併せて代々の供養も行われているという。
大きな墓碑が廣道のものと思われます。
他の墓碑の被葬者は不明。
「仁昌院殿繁林道榮大居士
林昌院殿温恭智賢大居士」。
寄組山内家19代当主山内梅三郎通恂の墓。
4代目奇兵隊総督であった山内梅三郎。
墓碑には戒名が二つありますが、
どちらが梅三郎のものかわかりません。
側面の[明治十二年十一月十一日没]より、
この墓が梅三郎の墓碑であると断定。
父の山内通遠は梅三郎が5歳の時に死去し、
梅三郎は幼くして家督を継いでおり、
奇兵隊総督となったのは17歳の時でした。
家臣団を抱える寄組士当主は殿様であり、
これを総督に据える事で隊士らを抑え、
さらに藩軍であるという誇りを与えます。
勿論実務は軍監山縣狂介らが担当しますが、
よく云われる名目上、カタチだけではなく、
梅三郎に山縣が随伴する様子も目撃され、
当の梅三郎も本気で総督を務めました。
開闢総督高杉晋作も度々同行したようで、
彼を晋作は気に入っていたようです。
※名前の梅三郎も晋作好みですし・・。
第二奇兵隊総督も兼務したことからも、
総督として十分に務めた事が伺えます。
後に赤間関総奉行に任じられ、
奇兵隊総督を罷免。
廃藩置県後の明治5年に米国に留学し、
同8年に帰国し神奈川県に出仕しましたが、
明治12年に横浜で病没してしまいました。
神奈川県では学務課に勤務していたようで、
幕末期に色々と学んだ経験から、
教育に関心を持ったのかもしれません。
若くして病没したのはとても悔まれます。
■関連記事■
・奇兵隊の吉田転陣
晋作と山縣が山内家を訪問。
・カエルを食べたかった晋作
晋作、山形、梅三郎がカエルを捕まえる。
・下関市吉田 常関寺/小倉戦争時の野戦病院
前回訪問時の記事。