下関市吉田 吉田宰判勘場跡/御茶屋跡

長州藩は直轄地を宰判という行政区に分け、
代官を置いて行政にあたらせていました。
宰判には勘場と呼ばれた役所が設けられ、
租税徴収、治安維持、
裁判等が行われています。

吉田山陽道赤間関街道が交差し、
藩直轄地の最西に位置していた為、
役所として吉田宰判勘場が設置され、
美祢郡南西部と厚狭郡西部を、
管轄していました。

東行庵から県道262号を北に進み、
下関市立吉田小学校の北側の細道に入ると、
勘場の土塀が残っています。

吉田宰判勘場跡」。
微妙に土塀が残されて井戸の跡もあり、
現在は取り壊されていますが、
近年まで土蔵が残っていました。
隣接して御茶屋も建てられていたようで、
参勤交代の諸大名の宿泊施設等に、
利用されていたようです。


数年前まで鬱蒼としていた記憶が・・。
現在は更地となり標柱が建っていました。


小学校側には状態良く土塀が残っています。

奇兵隊が吉田に転陣した際には、
陣屋の建設されるまでの屯所に利用され、
勘場に割り当てられた隊士は勘場詰
御茶屋に割り当てられて隊士は御茶屋詰と、
それぞれ呼ばれたという。
代官や諸大名が使用するので、
居心地は悪くなかったでしょう。

吉田松陰の叔父玉木文之進は、
安政4年3月18日から同6年2月23日まで、
約1年間吉田代官を務めています。
その際に管轄の伊佐村周辺に、
子弟が学べる機関が無かった為、
在住藩士らに郷校[有善塾]を設立させており、
これが後に伊佐小学校になりました。
以後の代官は児玉伝兵衛糸賀外衛直澄
中村誠一柿並一太和智寅太郎
小倉源右衛門福原荒助粟屋多中
久保松太郎渡辺源右衛門と代わり、
兼常亘人が代官の時に明治維新を迎え、
その後も国重徳次郎野村蕃三
小川市右衛門井上半三郎と続き、
兼常剛之助の頃に廃藩置県を迎え、
吉田宰判は廃止されています。

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