川崎宿は東海道の2番目の宿場町。
宿場の設置当初は住民農民の負担が多く、
問屋場の経営もままならなかったという。
これに名主で本陣も務めた田中休愚は、
六郷の渡しを宿で請け負う許可を取り付け、
住民や近隣の農民の負担を大幅に減らし、
宿の復興と繁栄を齎す基礎を築きました。
川崎駅東口周辺。緑の線が街道筋で、
青くぼかした辺りが宿場のあった場所。
「歌川広重 東海道五十三次之内 川崎」。
慶長5年(1600)に徳川家康によって、
六郷大橋が架けられた記録がありますが、
多摩川の洪水で度々流失していました。
そして貞享5年(1688)の流失以降、
橋は架けられることはなく渡し船が登場。
重要な交通手段となっています。
歌川広重はこの六郷の渡しを描き、
一服する商人や旅姿の武士など、
渡船ののどかな風景を描きました。
京口より散策。
「京口跡」。
川崎宿への西側の入口で、
切石を積んだ土居が設置されていたという。
文久2年に川崎宿が外国人遊歩区域となり、
その警護に為に関門番所が設けられ、
役人や道案内が詰めていたようです。
ここから宿の最西にあたる古土呂町。
現在はビルが建ち並んで遺構はありません。
真っ直ぐ進むと新川通りと交差。
この新川通りに新川堀が流れていましたが、
現在は暗渠となっています。
「古土呂橋親柱」。
新川堀に架けられた古土呂橋の親柱。
古土呂橋は石橋であったようで、
長崎からやって来た象も渡ったという。
新川堀を越えたら砂子町。
飲食店や夜の店が増えてきます。
「佐藤本陣(上の本陣)跡」。
本陣を務めた佐藤惣左衛門家の跡地。
川越宿の本陣は2つありましたが、
佐藤本陣は京側にあった為、
上の本陣と呼ばれていました。
跡地は川越信用金庫本店の向かい側で、
現在はセブンイレブンとなっています。
作詞家で詩人の佐藤惣之助は佐藤家の出身。
※六甲おろし等を作詞。
更に進む。
「問屋場跡」。
人足と伝馬を常備した問屋場の跡。
偶然にもこちらもセブンイレブン。
向かいには中の本陣がありましたが、
江戸後期に廃業したようです。
「宗三寺」。
街道筋にある曹洞宗の寺院。
墓地には遊女の供養塔があります。
「飯盛女供養塔(右)」、
「紅燈巷女萬霊供養塚(左)」。
紅灯の巷とは花柳街のこと。
右は大正期に川崎宿貸座敷組合が建立。
左は昭和63年に川崎今昔会が建立。
宗三寺を過ぎれると新宿町。
この辺りはマンション街です。
「田中本陣(下の本陣跡)」。
もう一つの本陣田中兵庫家の跡地。
江戸中期の当主田中休愚は、
江戸商人が請け負っていた六郷渡しを、
川崎宿が請負う許可を得て、
宿場の繁栄の基礎を築きました。
更に進んで多摩川の南側へ。
「万年屋跡」。
旅籠万年屋の跡(だぶん)。
川崎宿で最も名高い旅籠兼茶屋で、
ここで出される奈良茶飯が評判でした。
安政4年に米国総領事ハリスが宿泊し、
明治10年には皇女和宮も宿泊。
和宮は箱根療養に向かう途中の宿泊で、
主人半七の孫娘ハルを気に入り、
箱根細工の土産も買ったようですが、
間もなく療養先で死去しています。
東京に戻る和宮の霊柩は万年屋に停まり、
女官によって土産がハルに渡されたという。
「六郷渡し跡」。
明治元年の明治天皇の渡御の際は、
23隻による舟橋が架けられたようで、
明治天皇六郷渡御碑が建てられています。
■東海道の宿場町
■関連記事■
・東京都中央区 日本橋
東海道の起点。
・東京都品川区 品川宿跡
東海道の1番目の宿場町。
・神奈川県横浜市 神奈川宿跡
東海道の3番目の宿場町。