徹心寺は福本池田家菩提寺の法華宗寺院。
福本藩初代藩主家田政直が建立しました。
「山門」。
天保9年(1838)建立の茅葺切妻造の薬医門。
茅葺きは風情があって良いですね。
「本堂」。
宝暦12年(1762)建立の入母屋造の本堂。
こちらも茅葺きですが結構傷んでいます。
県指定重文とのことですので、
大切に保存して頂きたいですね。
池田家の墓所は境内の墓地内。
「大雲院殿一関徹心大居士」。
元山崎藩主池田輝澄の墓。
姫路藩初代池田輝政の四男で、
母は徳川家康の次女督姫であった為、
松平姓を下賜されました。
兄の岡山藩2代池田忠雄の分与を受け、
山崎藩3万8000石を立藩。
後に3万石を更に与えられますが、
急激な所領拡大に伴う家臣登用で、
新旧家臣団で争いが発生してしまいます。
これが幕府の耳にまで入ってしまい、
家中不取締として改易。
鳥取藩(岡山藩から移封)に預けられ、
藩内鹿野に堪忍料1万石を与えられました。
「池田能登守政直公
性淨院殿源覚日心覚儀」。
福本藩初代藩主池田政直の墓。
輝澄の四男として生まれ、
父の死後に家督を相続していますが、
政直は家康の曾孫にあたる為に、
改めて播磨国内に1万石が与えられ、
福本に陣屋を置いて福本藩を立藩。
しかし政直は嗣子なく死去してしまい、
領地は(輝澄五男)池田政武に7000石、
池田政済(輝澄七男)に3000石と分けられ、
福本藩は消滅しています。
福本池田家2代当主池田政武の墓。
※墓碑銘は風化で読めませんでした。
輝澄の五男として生まれ、
兄政直の遺領のうち7000石を相続し、
家督を相続しました。
※残り3000石を相続した弟の政済は、
屋形池田家として続いています。
この為に大名ではなくなっており、
福本藩は消滅して交代寄合となりました。
「〇陽院殿〇〇能尊儀
松平久馬助源政森公」。
福本池田家3代当主池田政森の墓。
2代政武の嫡男として生まれ、
父の死去に伴い幼少で家督を相続しました。
遺領のうち1000石を弟池田政親に与え、
福本池田家の知行は6000石となっています。
※政親の系譜は吉富池田家として続きます。
「觀〇院殿道日霊尊儀
松平伊勢守源喜以公」。
福本池田家4代当主池田喜以の墓。
3代政森の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
幕政で大番頭を務めるなどしており、
53年の長期に渡り当主を務めています。
「〇〇院殿〇〇〇尊儀
松平但馬守源喜生公」。
福本池田家5代当主池田喜生の墓。
中津藩2代奥平昌敦の次男で、
4代喜以の婿養子となり家督を相続。
伏見奉行などを務めるなどしており、
41年の当主在任の後に死去。
「體量院殿清遠日観大居士
松平弾正源喜長公」。
福本池田家6代当主池田喜長の墓。
5代喜生は上田藩から養子池田輝名を迎え、
その継嗣としていましたが、
家督相続前に輝名は死去してしまい、
輝名の子喜長が嫡孫となって家督を相続。
23年の当主在任後に死去しました。
「顯考院殿貞勝日壽大居士
池田弾正喜通公」。
福本藩初代(2度目)藩主池田喜通の墓。
6代喜長の嫡男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しました。
文久3年には近隣で生野の変が発生。
その鎮圧に家臣を出陣させています。
明治元年には本家の鳥取藩より、
蔵米3500石を与えられた事により、
大名となって福本藩を再立藩。
しかしその直後に急死してしまいました。
「池田家墓所」。
最後の藩主池田徳潤の個人墓はなく、
写真左の累代墓に合葬されているようです。
徳潤は喜通の急死により家督を継ぎ、
明治2年の版籍奉還で知藩事となりますが、
翌年には福本藩は鳥取藩に併合され廃藩。
明治4年より海外を視察しており、
帰国後は区長や書記官を務め、
明治17年に男爵を叙爵されています。
しかし晩年は経済的理由で爵位を返還。
福本に戻って余生を過ごしたという。
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