吉田松陰の最初の江戸遊学⑤

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つづき。

一、3月20日、雨
卯後、①郡山を出発。
摂津の国は小藩封地の交差するもの多く、
その区別が難しい。
但し尼崎藩領は毎々に碑が建てられており、
自藩の領地を示していた。
これは松平遠州の封地である。
※尼崎藩7代松平遠江守忠興
山崎を過ぎれば道左の山腹に寺がある。
これを天王山観音寺という。
この地の道路は狭くぬかるんでいる。
光秀の義兵をがここで迎え撃った際も、
策が無かったわけでは無いだろう。
豊公の勝利は先手が打てた事である。
また天が不義に組しなかったこともあろう。
淀川に沿って上り左に淀城を見て、
伏見に宿泊する。
京都府京都市 伏見宿跡①
淀城は稲葉長門守の居る所なり。
淀藩12代稲葉長門守正邦
この夜、松平阿波守立花左近将監
松平主殿頭松平兵部丞の四候も宿す。
※阿波守は徳島藩13代蜂須賀斉裕
 左近将監は柳河藩12代立花鑑寛
 主殿頭は島原藩5代松平忠精
 兵部丞は判りませんでした。


一、3月21日、曇。
伏見に留まる。
楠公の墓下で詩を作成した。
 爲道爲義豈計名 誓與斯賊不共生
 道の為、義の為にはどうすれば良いか
 誓ってその賊と共には生きられない。

 嗚呼忠臣楠子墓 吾且躊躇不忍行
 嗚呼!忠臣楠木正成公の墓
 我はしばらく躊躇して動けなかった

 湊川一死魚失水 長城己摧事去矣
 湊川での死で魚は水を失い
 長城は既に砕けて全ては終わった。

 人間生死何足言 廉頑立懦公不死
 人間の生と死は語りつくせない
 融通を効かせる臆病は人間は死なず

 如今朝野悦雷同 僅有圭角之不容
 今の世は同調を良しとして
 僅かな異論があれば排除する

 讀書已無衛道志 臨事寧有取義功
 書を読んでも道義を守る志無ければ
 事が起こっても義を発揮出来ない

 君不見滿淸全盛甲宇内 乃為幺麼所破碎 
 君見ずや清国の全盛が天下に響いても
 最期には微弱な者に破碎されてしまう

 江南十萬竟何為 陳公之外狗鼠輩
 江南の兵十万に何が出来たか
 陳化成公の他は狗鼠の輩である

 安得如楠公其人 洗盡弊習令一新
 慈しんで楠公のような人を得て
 悪習を洗い清めて世を一新させたい

 獨跪碑前三嘆息 滿腔客氣空輪囷
 独り墓前で三度嘆息し
 全身の覇気が空回りしていた


一、3月22日、曇。
伏見驛を出発。道端に碑があり、
[長沼澹斎先生の墓はここを距ること三町]と。
※長沼澹斎は長沼流兵学の創始者。
 長沼流は山鹿流と双璧なす新兵学で、
 松陰は長州藩山鹿流兵学師範

 ライバル流派の創始者には興味なし?
この地は孟筍梨樹が植えてある。
近江に入り逢坂を越えて③大津で食事。
滋賀県大津市 大津宿跡
阿波守公もここで休憩した。
湖が眼前に広がって美しい。
膳所城下を経て勢多に至り雨に遇う。
滋賀県大津市 瀬田の唐橋
草津に至りて姥餅を食う。
滋賀県草津市 草津宿跡
石部に宿す。凡そ10里。

一、3月23日、晴。
横田川が増水して渡れないので滞留。

一、3月24日、曇。
駕に従って石部驛を出発。
箍輪に至りて薩少将と遇う。
薩摩藩11代島津左近衛権少将斉彬
 箍輪がどこか判りませんが、
 石部と水口の間と思われます。

行列を見ると老成の人が多く、
侍御の槍鈀は20根余り、
業聚して付き従っている。
この行列は見るべき価値がある。
甲賀郡の水口城を過ぎる。
滋賀県甲賀市 水口城跡
加藤能登守の居る所。
水口藩10代加藤能登守明軌
土山驛を過ぎて⑥鈴鹿の坂に至る。
頂上は江勢の境界で昔関所があった場所。
直ぐに平地となって坂下驛
三重県亀山市 坂下宿跡
関宿に宿泊。
三重県亀山市 関宿跡
鈴鹿より関に至る道は、
山近く道は狭く東海諸州とは似ていない。
夜に雨。


3/20~3/24の行程。

つづく。
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