玉名郡長洲町にある立花誾千代の墓。
この墓は[ぼたもちさん]として親しまれ、
現在も地域の人々に管理されているという。
立花誾千代は立花道雪の一人娘で、
後継男子のいなかった道雪は、
誾千代に家督を相続させました。
後に高橋紹運の息子立花宗茂と結婚し、
その家督を夫に譲りますが、
紛れもなく立花家当主であったようです。
天正15年(1587)に宗茂は柳河を与えられ、
大友家家臣から豊臣秀吉の直臣に移行。
誾千代も立花城から柳河にはいりますが、
後に城を出て宮永に居住し、
[宮永殿]と称されるようになります。
関ヶ原の戦いに宗茂が西軍として出陣し、
本戦を戦わぬままに敗北。
誾千代は柳川城の守りを任されており、
鍋島勢や加藤勢を寄せ付けず、
帰城した宗茂を自ら出迎えました。
宗茂が降伏して改易となると、
玉名郡腹赤村(現長洲町)の市蔵宅に居住。
2年後の慶長7年(1602)に病を得て、
同地で死去しています。
「光照院殿泉譽良清大姉 霊儀」。
宗茂は柳河領を再び与えられた後、
元和7年に柳川に良清寺を建立し、
誾千代の菩提を弔いましたが、
寛永11年(1634)には墓所も改葬し、
その跡地この供養塔を建立。
頭部が[ぼたもち]型である為に、
人々は[ぼたもちさん]の愛称で呼びました。
雷神と称される[父譲りの武勇]と、
[九州諸夫人中第一の美貌]を併せ持ち、
鉄砲と薙刀の名手であったという。
豊臣秀吉がその噂を聞きつけ、
誾千代を名護屋城に呼び寄せますが、
謁見の際には武装して現れた為、
秀吉は褒美を与えて返したともされ、
その武勇は加藤清正の進軍ルートを、
変更させたとされています。
別居した事や2人の子がいない事から、
宗茂と不仲だった説もありますが、
これを裏付ける資料は存在せず、
他にも宗茂の実子はいないことから、
これを鵜呑みには出来ません。
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