立花帯刀家は柳河藩家中最高位の家格で、
立花内膳家と共に御両家と呼ばれました。
柳河藩2代藩主立花忠茂の三男立花茂虎は、
長兄、次兄が早逝していたにも関わらず、
実母が側室であった為に継嗣とはならずに、
継室の子四男立花鑑虎が家督を相続。
隠居した忠成は茂虎の行く末を案じ、
京都大徳寺の僧になる事を薦めますが、
茂虎はこれを拒んだ為に忠成の怒りを買い、
家臣に預けて謹慎処分とします。
寛文12年(1672)に3代鑑虎は不遇の兄に、
山門郡中山村を与えてこれを慰め、
更に忠成死後の延宝4年(1676)に加増。
立花帯刀家を創設させてこれを優遇しました。
後の代には内膳家と共に御両家として続き、
内膳家が[武の家]と称されるのに対し、
帯刀家は[文の家]とされました。
帯刀家の墓所は宗永寺でしたが、
現在は廃寺となっており、
跡地の民家が墓所を管理しているようです。
「立花帯刀家墓所」。
訪問時に丁度民家の方が出てこられて、
裏手の墓地に案内して頂きました。
墓所は土砂崩れのようになっていますが、
これはイノシシがやったもの。
つい最近に3~4頭いたらしく、
石を投げて追っ払ったとのこと。
何度直してもすぐに荒らされるようで、
非常に困っているようです。
「宗永寺殿李渓好白大居士之塔(右)」、
「榮林院殿心華淨芳大姉之塔(左)」。
初代当主立花茂虎の墓と、
その室榮林院の墓。
初代茂虎は上記のように不遇でしたが、
藩主となった異母弟から領地を与えられ、
立花帯刀家を創設しました。
元禄14年(1701)に58歳で死去。
2代当主立花茂高は九品寺、
3代当主立花茂之は引接寺に墓があります。
「瑞雲院殿悟眞哲玄大居士」。
4代当主立花茂矩の墓。
享保5年(1720)に家督を相続し、
同20年(1735)の桜町天皇の即位では、
5代藩主立花貞俶の名代として参内し、
祝辞を述べています。
明和6年(1769)に52歳で死去。
「養源院殿俊徳宣明大居士壽塔」。
5代当主立花茂親の墓。
父の死去に伴い家督を相続。
明和8年(1771)に桃園天皇が即位すると、
7代藩主立花鑑通の名代として参内。
また槍術の達人だったとされ、
夫木流の奥義を極めていたという。
この為に藩の槍術師範も拝命。
文化12年(1815)に63歳で死去しています。
以下2基は逆光となってしまいました。
「定静院殿妙心精通大居士」。
6代当主立花茂旨の墓。
父の死去に伴い家督を相続し、
文化14年(1817)に仁孝天皇が即位すると、
8代藩主立花鑑寿の名代として参内。
天保14年に死去しています。
「覺了院殿一今如天眞大居士」。
7代当主立花茂教の墓。
父の死去に伴い家督を相続し、
弘化4年(1847)に孝明天皇が即位すると、
12代藩主立花鑑寛の名代で参内。
嘉永元年に萩流砲術師範を勤め、
万延元年に57歳で死去しました。
8代当主立花茂樹の墓はここにありません。
茂樹は嘉永3年に家督を相続し、
維新後の明治2年に総帥職となりますが、
翌年にはこれを辞職しています。
廃藩後に東京に遊学した後、
大阪の浪華青年舎兵事学に入り、
伍長兼伝習役に任じられました。
明治6年に職を辞して故郷に戻りますが、
その後の事は不明です。
「霊岳院殿秀道貫徹大居士
愛光院殿真室妙照大姉之墓」。
9代当主立花三郎夫妻の墓。
小野家28代小野隆基の五男に生まれ、
嫡子なき8代茂樹の養子として家督を相続。
三池小学校教授を経て三池銀行や、
柳河銀行に勤務しています。
後に町会議員を勤めました。
天皇即位の祝辞で代々名代を勤める等、
流石は「文の家」といったところ。
イノシシ被害で大変な状況ですが、
なんとか守って頂きたいものです。
■関連記事■
・福岡県大牟田市 立花内膳家墓所
御両家のひとつ立花内膳家の歴代墓所。
・福岡県柳川市 福厳寺/柳河藩立花家墓所①
柳河藩立花家の歴代墓所。