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長流寺は杵築市山香町にある曹洞宗寺院。
交代寄合立石木下家の菩提寺で、
歴代当主の墓所が営まれています。
立石木下家は日出藩木下家の分家で、
日出藩初代藩主木下延俊が2代木下俊治に、
1万石を四男木下延由に分知する事を遺言。
これを受けて俊治が5000石を延由に分知し、
幕府の旗本(交代寄合)となった家でした。
「長流寺」。
詳しい由緒は不明ですが領内菩提寺として、
領主の庇護を受けて隆盛していました。
ちなみに立石木下家の江戸菩提寺は、
港区高輪の泉岳寺だったようで、
この長流寺も泉岳寺の末寺とのこと。
本堂等は鉄筋RC造の新しいものです。
「立石木下家墓所」。
本堂西側にある立石木下家の墓所。
山肌にL字型の墓所が営まれており、
初代から10代までの当主の墓や、
その一族等15基の墓石が並んでいます。
「月渕良照」。
初代当主木下延由の墓。
日出藩初代木下延俊の四男でしたが、
三男の木下俊治とは同年生まれの腹違い。
延俊は後継争いを避ける為に、
継嗣を三男俊治と定めていますが、
臨終の際に1万石を分知を命じます。
しかし日出藩家老長澤市之丞は、
これに反して5000石の分知を主張し、
結果的に5000石のみ与えられました。
※後に遺言に背いたとして長澤は切腹。
そういった経緯から分知を受けながらも、
俊治とは終生不仲だったようです。
万治元年(1658)、死去。
彼は豊臣秀頼の庶子という説もありますが、
その根拠が過去帳が豊臣姓だった事なので、
これについては少し弱いなと思います。
但し[歴史ロマン]という事は比定はしません。
あくまで[だったかも?]という事で。
以下資料が少なく写真と少々の逸話のみ。
「怊峯宗仙」。
2代当主木下延知の墓。
楠原三島社、馬上八万社に鳥居を奉納。
また詩歌、俳諧等も残しています。
日出藩との不和は代替わり後に、
どうやら和解したとのことですので、
彼の代にこれが行われた模様。
延宝6年(1678)に死去しました。
「物外自涼」。
3代当主木下重俊の墓。
延知の子で14歳で家督を相続し、
宝永3年(1706)に42歳で死去。
「華岳慈俊」。
4代当主木下栄俊の墓。
重俊の子で11歳で当主に就任し、
元文5年(1740)に45歳で死去。
つづく。
①/②
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日出藩木下家の歴代墓所。
・大分県杵築市 立石宿跡
城下にあった日向街道の宿場。
