福井県敦賀市 來迎寺/鞠山藩五士墓所

来迎寺は福井県敦賀市にある時宗寺院。
嘉慶元年(1387)に国阿上人が敦賀に訪れ、
気比神宮に参拝して三日三晩修行を行うと、
霊夢で御告げがあったようで、
それに従い草庵を設けたのが始まりとのこと。
戦国時代には敦賀城主大谷吉継が帰依し、
敦賀城の加飾腰高障子が13枚が預けられ、
本堂に現存しているようです。
ちなみにこの来迎寺には一度訪問しています。
福井県敦賀市 幕府による天狗党の処罰地


山門」。
山門は敦賀城の中門だったもので、
廃城の際に移築されたもの。
敦賀城の建築物で唯一の現存遺構です。


本堂」。
建立時期は調べても判りませんでしたが、
古いものだと思われます。
天狗党は耒迎寺で斬首されたとされますが、
正確には西側の耒迎寺野という場所で、
現在の武田耕雲斎等ゆかりの地であるという。
福井県敦賀市 武田耕雲斎等ゆかりの地

さて、今回再訪したのは、
鞠山騒動で家老を殺害した藩士らの墓が、
この耒迎寺の墓地にあるということから。

左から「松田教親之墓」、
久保義致之墓」、「加藤吉幸之墓」、
中村隆則之墓」、「大澤申之之墓」。
鞠山藩五士の墓。
敦賀藩(鞠山藩)は小浜藩の支藩で、
敦賀周辺1万石を領した定府大名でした。
幕末の7代藩主酒井忠毗佐幕派で、
若年寄を3度も務めていましたが、
情勢が変わって立場が危うくなった為、
家督を四男酒井忠経に譲り隠居します。
家老野口文太夫俊則は若い忠経を侮り、
次第に専横の態度を見せるようになり、
これを憂う藩士らの訴えも退けました。
先代藩主もこの悪評を調査しますが、
野口はその事実を隠蔽しています。
ここに至って五士は藩の行く末を案じ、
京都で野口の殺害を決行。
明治元年6月19日に野口の宿所を襲い、
野口とその三男野口銀三郎
腹心の金子泰輔の3名を殺害しました。
目的を果たした五士は小浜藩邸に自首し、
小浜藩は彼らを小浜へ移送。
五士は自裁を強く求めましたが、
その処遇は保留されて留め置かれ、
判決が下ったのは明治5年3月になってから。
その間に久保義致は病死しており、
残った四士は来迎寺門外で切腹。
この5つの墓碑は敦賀町民の募金により、
ここに建立されたものとのことです。

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