福堂策 下 を読んでみる

[福堂策 上]を著した吉田松陰ですが、
同年9月に[福堂策 下]として追記を行い、
その策について補足しています

福堂策 下
政ヲ爲スノ要ハ、人々ヲシテ鼓舞作興シテ、

 政治を成す要は人々が鼓舞作興して、
各、自ラ淬属セシムルニアリ、
 それぞれ自らが励む事が重要である。
若、ソレヲシテ法度ノ外ニ自暴自棄セシメハ、
 それなのに法度の外に自暴自棄させるのは、
善ク政ヲ爲スト云ベカラズ、
 良い政治を成しているとはいえない。
而して、其術、賞罰の二柄にアリ、
 しかしその術は賞罰の二種類にあり、
賞典ハ姑ク措テ論セズ、罰ヲ以テ是ヲ論ゼシ、
 賞典については論する必要はないが、
 罰についてこれを論ずる。

方今、諸士中、隠居ノ者、或ハ禁足シ、
 昨今の諸士の中で隠居の者、或いは禁足、
或ハ遠嶋シ、或ハ拘幽スル者、
 或いは遠島、或いは投獄された者は、
意フニ幾百ヲ以テ数フヘシ、
 いうに数百をもって数えるという。
余此輩ヲ観ルニ、法度外ニ自暴自棄スル者、
十常ニ八九ニ及ブ,

 余がこれらの輩を見るに、
 自暴自棄となるものは十中八九に及ぶ。

其自ラ淬勵スル者ノ如キハ、
 自ら物事に励むような者を得るのは、
實ニ十中ニ一二ヲ得るモ亦難シトス、
 実に十中八九難しいだろう。
余ガ福堂策ヲ作ル、其是如憂ルナリ、
 余が福堂策を作ったのはこの事から。
而シテ、更ニ一処置ヲ思ウ事アリ、
 そして更に処遇について思う事がある。
近時、洋賊陸梁、勢、将ニ事ヲ生ゼントス、
 近頃は外国船の出没が相次いでいる。
此時ニ當テ、勇猛敢死ノ士、
 その際に勇猛果敢の武士が、
最モ国ニ用アリトス、
 最も国家にとって必要である。
今新ニ一令ヲ下シ云ク、凢ソ隠居ノ輩、
 今新たに命を下したとして隠居した者が、
敢テ自ラ暴ヒ自ラ棄ル事ナカレ、
 あえて自ら危険を冒させてはいけない。
一旦事アル、用イテ先鋒ニ當ツベシ、
 一度事が起こって召集して先鋒とすべし。
果シテ能ク功ヲ立テナバ、
 そして上手く戦功を立てたなら、
旧秩禄ニ復スベシト、
 旧禄を再度与えるべきである。
若シ然ラバ、幾百人敢死ノ士、
 もしそうならば数百人の死を恐れぬ士を、
立處ニ得ベシ、亦是國家ノ一便計ト云ベシ、
 たちどころに得る事が出来るだろう。
 これは国家の上策といえるだろう。

余、常ニ近世士道ノ衰頽ヲ嘆ズ、
 余は常に近頃の士道衰退を嘆く。
囚ト爲ツテ以来、益々罪人ト居リ、
 囚われて以来多くの罪人と接し、
叉、在嶋人ノ情態ヲ聴クニ、
 また遠島された者の状態を聴くに、
大抵、自暴自棄シテ、方縦自ラ處リ、
 大抵は自暴自棄となって放縦に振る舞い、
士道都テ和スルルニ至ル、然レドモ、
 士道を捨ててしまう。しかし、
人斯性ナキハナシ、斯ノ性アレバ、
 人の心は無きはなし。その心あれば、
斯ノ情アリ、斯性情アリテ、而モ且自棄スル、
 人の情もある。人の情あっても自棄となる。
豈其甘ズル所ナラシヤ、誠ニ委靡壊敗、
 あにその人の心の甘さであろう。
 誠に委靡壊敗である。

自ラ奮フ能ハザルニ坐スルナリ、
 自ら奮う事が出来なければ座してしまう。
然々、人必謂ン、
 このようになる人は多い。
彼輩罪アリ、故に廃ス、
 彼らは罪がある。だから廃除する。
何ゾ叉更ニ起シ用ユルニ堪ンヤト、
 何もこれを用いる事が出来ない。
余、窃ニ以テ然ラズトナス、
 余はそうではないと思う。
夫ハ罪ハ事ニアリ人ニ在ラズ、
 人の罪はその事柄にあって、
 その人そのものにあるわけではない。

一事ノ罪、
何ゾ遽カニ全人ノ用ヲ廃スル事ヲ得ンヤ、
 ひとつの罪が、
 その人を全てを廃する事が出来ようか。

况ヤ、其ノ罪巳ニ悔ル、
 ましてやその罪を真に悔いている。
固ヨリ全人ニ復スル事ヲ得ルヲヤ、
 もとより全ての人は立ち直る事が出来る。
罪ハナホ疾ノ如キカ、
 罪は病気の如きもの。
目ニ盲スル者、固ヨリ耳鼻ニ害ナシ、
 目が見えない者はもとより耳鼻に害なし。
頭ニ瘡アル者、固ヨリ手足ニ害ナシ、
 頭に腫物がある者ももとより手足に害なし。
一處ノ疾、何ゾ全身ノ用ヲ廃スル足ンヤ、
 一ヶ所の疾患は全てを廃するに足る事か。
其一處ニ疾テ全身従テ廃スル者ハ、
 その一つの疾患で全てを廃する者は、
心疾是ノミ、而シテ、心疾豈人々ニアランヤ、
 心の病気である、つまり心の病人であろう。
酒ニ溺シ、色ニ耽リ、貨ヲ貪リ、力ヲ恃ム、
 酒に溺れ、色に浸り、金を貪り、力に奢る。
世ノ所謂大罪ナリ、
 世でいうところの大罪である。
而シテ、余ハ則謂ラク一事ノ罪ニシテ
 だから余は一度の罪があったとして、
イマダ其全人ノ用ヲ廃スルニ足ラズト、
 未だその人の全てを廃するに足らないと。
叉、是を禽獣草木ノ人ニ於ルニ警フ、
 またこれを禽獣草木に例えると、
牛馬言語セズト雖、載スベシ、耕スベシ、
 牛馬は話せないけれど物を運べて耕せる。
草木行走セズト雖モ、
 草木は移動出来ないが、
棟梁トスベシ、屋席トスベシ、
 棟梁や屋席にすることが出来る。
今ヤ、人一罪アリト雖モ、
 今や人に一度の罪があるといえど、
何ゾ、遽ニ禽獣草木ニ劣ランヤ、
 なんで禽獣草木に劣る事があろう。
要、是レヲ用ユル如何ニアルノミ、
 要はこれをどこに用いるかのみ。
有罪ノ人、固ヨリ平時ニ用ユベカラズト雖モ、
 有罪の人を平時に用いかねるといえど、
是ヲ兵戦ノ塲ニ用ル時ハ、
 これを戦場で用いる際は、
其用ヲ得ルト云ベシ、
 その用を果しえるといえる。
漢詩、七科ノ謫ヲ発シテ兵トス、
 漢の時代には七科謫に兵が定められた。
其意、蓋亦斯ノ如シ、
 その意は蓋のようなもの。
是レ余ガ人ヲ鼓舞作興スルノ一處置ニシテ
 これは余が鼓舞作興するとことで、
福堂策に附録スル所以ナリ、
 福堂策に追記する所以である。
 余己作此論、語諸同囚、
 或曰、巳矣、人必謂子自爲計也、
 余曰、計之便于国者、吾何避嫌不言、
 非吾言之、則誰敢及焉、且使吾自爲計、
 何苦忘身犯法自取困蹴哉、或不能答、因書、

  余はこの論を囚人達の前に語る。
  人は自分の為の行動だろうという。
  余曰く国を思うなら黙ってはいられない。
  吾が言わないと誰がこれを指摘するだろう。
  何故自ら法を犯し苦境に陥るのか、
  わからぬ者もいるので記す。

 乙卯秋九月仲一日

以上、[福堂策 下]でした。
意外にも「刺さる」部分はありました。
あいつはあーだこーだとレッテル張り
吉田松陰が約170年前に指摘した事が、
未だに無益にも繰り返されています。
それらの人がこの文章を読むことも、
ましてや理解する事もないのでしょうね。

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