慶応2年の第二次長州征伐で幕府軍は、
大島口、芸州口、小倉口、そして石州口より、
長州藩の領内へ侵攻する事と決定します。
これに対する長州藩側の戦略としては、
他の戦線は防戦の方針を取りながら、
石州口では先制攻撃を加えて進軍し、
そのまま浜田城まで奪ってしまおうと計画。
作戦立案の大村益次郎が総指揮官となって、
長州藩軍を率いて出陣しました。
中立の立場を取った津和野藩領を通り、
浜田藩の扇原関門を突破した長州藩は、
幕府軍の陣取る益田を攻撃。
幕府軍は28人の戦死者を出し、
※福山藩14人、浜田藩11人、幕臣3人。
この戦いは長州藩の勝利で終わっています。
劣勢の幕府軍が退却する最中に、
軍監三枝刑部が狙撃されて討死。
これを知った浜田藩の隊長山本半弥は、
その責任を感じて切腹しました。
彼らは勝達寺墓地に葬られており、
その墓碑が今も残っています。
「監軍 三枝刑部
同属吏 武内直次郎
浜田藩 那波務敏
福山藩 山路忠平
藤井源次郎 合葬墓(右)」、
「浜田藩 山本半弥墓(中央)」、
「福山藩従卒 源助 宇吉 合葬墓(左)」。
益田戦争での幕府軍戦死者の墓碑群。
三枝刑部は2500石取の旗本で、
最初は主膳と称していたとされ、
慶応元年9月に小姓組番から使番となり、
同2年に長州征伐に軍監として派遣されて、
益田戦争で討死してしまいました。
武内直次郎も旗本のようですが、
出自や知行等の詳しい事は不明。
浜田藩及び福山藩の戦死者に関しても、
詳しい事は調べてもわかりません。
唯一山本半弥が浜田藩兵の責任者で、
軍監を戦死させてしまった事を苦に、
自刃した事が知られています。
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