高野山奥の院墓地/水野勝成墓所

奥の院墓地にある水野勝成の墓所。
勝成は結城藩水野宗家の初代当主で、
徳川家康の従弟でありながら諸大名に仕え、
主を変えて放浪を繰り返した人物です、


備後福山水野家墓所」。
相変わらず逆光で如何ともし難い。
2本の巨木の間が参道となっています。


徳勝院殿前四品日州太守参康宗休(右)」、
香源院殿誓〇榮壽大禪定尼(左)」。
水野宗家初代当主(福山初代)水野勝成の墓、
勝成の側室於登久(香源院)の墓。
勝成は水野忠重の嫡男として生まれ、
高天神城の戦い天正壬午の乱
小牧長久手の戦い等で戦功を挙げますが、
蟹江城合戦の陣中で父の部下を斬り殺し、
父の怒りを買って勘当されます。
その後は放浪の旅を続けた末、
豊臣秀吉仙石秀久佐々成政
黒田孝高小西行長加藤清正
立花宗茂と主君を変えており、
何れも抜群の戦功を挙げながら出奔。
以降は再び流浪の旅を続けて、
備中国人三村親成の食客となりました。
慶長4年(1599)に父忠重と和解。
しかし忠重が加賀井重望に殺された為、
家督を相続して刈谷城主となります。
関ヶ原の戦いでは大垣城を攻撃。
旧知の秋月種長に内応を進めて、
大垣城を降伏させました。
大坂の陣にも出陣しており、
夏の陣では後藤又兵衛隊を壊滅させ、
真田信繁隊が家康本陣を強襲した際は、
駆け付けてこれを撃退しており、
大坂城桜門に一番旗を立てています。
戦後の論功行賞では[戦功第二]とされ、
大和郡山に6万石で加増転封。
後に備後周辺10万石を与えられ、
大規模な福山城を築城。
城下町整備や農地拡大で藩政に注力し、
その基礎を造り上げました。
島原の乱では老齢ながら出陣し、
その翌年に隠居。
隠居後も藩政に関与しており、
慶安4年(1651)に死去しています。
側室於登久は2代水野勝俊の生母で、
勝成が三村親成の食客となっていた際に、
妻となった医師藤井道斎の娘。
勝成は後に親成の娘お珊を正室に迎え、
於登久は側室となっていますが、
これについては色々と説があるようです。

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