奥の院墓地にある松平忠直の墓所。
忠直は徳川家康の次男結城秀康の長男で、
北ノ庄藩の2代藩主でしたが、
後に隠居を命じられて豊後国に配流され、
以降は27年間豊後で過ごしています。
「西巖院殿相譽友大居士」。
北ノ庄藩(福井藩)2代藩主松平忠直の墓。
忠直は父秀康の死去に伴い家督を相続。
大坂冬の陣に出陣して多大な犠牲者を出し、
その失態を家康に叱責されており、
夏の陣でも味方を助けなかった為、
再び家康の怒りを買っています。
この為に忠直は汚名返上の為に奮戦し、
真田信繁勢と激突してこれを打ち破り、
家臣の西尾宗次が信繁の首級を得ており、
御宿政友も家臣の野本右近が討ち取りました。
更に大坂城一番乗りも果たしており、
家康から天下第一の勲功と絶賛され、
天下三肩衝「初花の茶壺」を与えられています。
しかし加増等の恩賞は与えられず、
忠直はこの論功行賞に不満を募らせ、
更に御三家の当主らが重く用いられ、
越前松平家の序列はその下に置かれた為、
その冷遇から次第に酒色に溺れました。
小姓や侍女を手討ちにしたり、
家臣に軍勢を派遣して一族ごと殺害。
遂には参勤を拒否するに至った為、
将軍徳川秀忠は忠直に隠居謹慎を命じ、
従わない場合に備えて軍勢も用意しました。
忠直は素直に隠居に応じており、
豊後国への配流されて晩年を過ごしており、
府内藩がこれを監視しています。
慶安3年(1650)、死去。
「天崇院殿穏譽泰安豊壽大禅定尼」。
忠直の正室勝姫の墓。
勝姫は秀忠と御台所於江の方の三女で、
慶長16年(1611)に忠直に嫁ぎました。
忠直との間に一男二女を儲けますが、
忠直は乱行によって配流となっており、
息子の松平光長は高田藩に転封。
勝姫は高田藩の田ケ窪屋敷で暮らしました。
光長の娘国姫を福井藩4代松平光通に嫁がせ、
国姫の子を後継とする事を強く主張しますが、
その過度な期待を苦に国姫は自害し、
側室の子松平直堅は身の危険を感じて出奔。
この事態に光通も耐え切れなくなり、
弟への家督相続を遺言に自害しています。
福井藩にとっては迷惑な夫婦ですね。
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