大島攻撃は山口政事堂へ伝えられますが、
大島より山口までは約1日の期間を要し、
6月7日の長崎丸の攻撃の一報は、
山口政事堂に翌8日にもたらされました。
これを聞いた山口政事堂の藩政府は、
長崎丸の砲撃を威力偵察と判断して、
「動揺せずに待敵の姿勢を崩さないように」
と大島に通達。
6月8日の久賀村砲撃の報告は、
2日後の6月10日に山口政事堂に届き、
山田宇右衛門や木戸貫冶(桂小五郎)らにより、
応戦の方針が決定。
浩武隊及び第二奇兵隊に大島出動を命じ、
下関の高杉晋作へ丙寅丸出港を要請しました。
一般的に云われる長州藩の大島放棄は無く、
報告がなされるや応戦を即断しており、
その藩の大島放棄の方針を無視して、
晋作が勝手に攻撃したというのも創作です。
6月12日。
対岸に集結した浩武隊、第二奇兵隊及び、
丙寅丸、大島勢は軍議を開く。
晋作は守備兵が抗戦なく退却した事に激怒し、
自ら丙寅丸で攻撃を仕掛ける事に決定。
6月13日。深夜2時頃。
丙寅丸は久賀沖に停泊中の幕府艦隊に砲撃。
大型艦の富士山丸は伊予沖へ出航しており、
翔鶴丸、八雲丸、旭日丸の3隻が碇泊。
蒸気機関を止めていた幕府艦は応戦が遅れ、
丙寅丸は艦隊に大砲7~8発を撃ち込み、
前島にも砲撃して安芸方向に逃走します。
安芸方向へ向かったように見せかけて、
丙寅丸は14日正午に三田尻に到着。
夜には下関に向けて出航しています。
奇襲の成功は三田尻より伝えられ、
長州藩軍は大いに士気が上がりますが、
幕府艦隊の被害は軽微であったとされ、
旭日丸が少々被弾した程度だったようです。
しかし丙寅丸が安芸方向へ逃れた為、
襲撃艦の船籍を特定する事が出来ず、
混乱を与えることになりました。
6月13日の戦闘(丙寅丸の奇襲)。
6月14日。
午前中に丙寅丸の奇襲成功が伝えられた他、
占領軍が油断しているとの情報も入る。
直ちに軍議を開いて大島への進発を決定。
長州藩軍は遠崎を出発し、
15日の早朝に大島へ上陸しました。
上陸した各長州藩軍は大島の西側より進軍し、
屋代村の西蓮寺を本陣とし、
本隊は垢水口より安下荘方向に向かうと、
幕府軍100余名と遭遇。
撃ち合いとなって幕府軍は安下荘に敗走し、
勝鬨をあげて西蓮寺に引き上げます。
また別動隊は久賀村に向けて進軍。
国木台や庄地などで撃ち合いとなり、
日暮れになって幕軍は退却した為、
その場で野営する事としています。
6月14日の戦闘。
続く。
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