嘉永7年。
ペリー艦隊の2度目の来航の際、
幕府はペリーや艦隊水兵らに、
相撲を披露することになります。
力自慢の力士達30人が、
艦隊への進物米200俵を運び、
米俵を軽々と持ち上げる力士達に、
水兵らは唖然としたとか。
幕府が力士達を動員したのは、
ペリーへの牽制の意味もあったらしい。
土俵入りや稽古相撲も行ったようで、
迫力ある相撲のぶつかりに、
彼らは驚いた事でしょうが、
ペリーはあまり気に入らなかったようで、
「芝居がかっている」… 続きを読む
嘉永7年。
ペリー艦隊の2度目の来航の際、
幕府はペリーや艦隊水兵らに、
相撲を披露することになります。
力自慢の力士達30人が、
艦隊への進物米200俵を運び、
米俵を軽々と持ち上げる力士達に、
水兵らは唖然としたとか。
幕府が力士達を動員したのは、
ペリーへの牽制の意味もあったらしい。
土俵入りや稽古相撲も行ったようで、
迫力ある相撲のぶつかりに、
彼らは驚いた事でしょうが、
ペリーはあまり気に入らなかったようで、
「芝居がかっている」… 続きを読む
幕末期にたくさんの外国人が横浜や長崎などに来ていますが、
どうやって来てたのかとふと疑問に思って調べたら、
普通に定期船が通っていたんですね。
そりゃそうだ・・・。いちいち軍艦で運んでられないわな。
日本への初の定期航路を開設したのは、
英国の「ペニンシュラー&オリエンタル汽船会社(P&O社)」。
ロンドンから地中海を通りアレクサンドリアへ。
そこからラクダ(後に鉄道)でスエズまで陸路。
別の船でアデン、インド、シンガポール、香港、そして上海。
すでに10年近く前に、上海までの定期航路を開設しています。
「P&O社… 続きを読む
慶応2年11月。
木戸貫冶(桂小五郎)は鹿児島に向かう途中、
長崎に立ち寄っています。
英国東洋艦隊もたまたま長崎に寄港しており、
木戸は司令官のジョージ・キング提督と会見。
会見の際にキング提督は下関への寄港と、
長州藩主への拝謁を強く求めてきました。
木戸は鹿児島に行くので即答できないと答え、
鹿児島からの帰路の下関で藩に手紙を送り、
拝謁の可否を考えてくれるように促します。
藩政府は英国との繋がりを作る好機と考え、
藩主毛利敬親… 続きを読む
「亀の甲せんべい」という銘菓があります。
江戸麹町出身の金次郎は、
幼少の頃より菓子作りを覚え、
長崎でオランダの洋菓子作りを習得し、
文久2年に江戸に帰る道中で、
兄がいた赤間関に立ち寄りました。… 続きを読む