奥の院墓地にある飫肥藩伊東家の墓所。
建武2年(1335)に伊東祐持が、
足利尊氏の命によって日向国に下向。
伊東家は南北朝時代に北朝方として戦い、
周辺勢力と争いながら版図を広げました。
戦国時代には島津家と抗争を続け、… 続きを読む
高野山奥の院墓地/飫肥藩伊東家墓所
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奥の院墓地にある飫肥藩伊東家の墓所。
建武2年(1335)に伊東祐持が、
足利尊氏の命によって日向国に下向。
伊東家は南北朝時代に北朝方として戦い、
周辺勢力と争いながら版図を広げました。
戦国時代には島津家と抗争を続け、… 続きを読む
伊東義祐は伊東家16代当主で、
飫肥藩初代藩主伊東祐兵の祖父。
伊東家最大の版図を築いた当主でしたが、
木崎原合戦で島津軍に敗れ衰退します。
以降は徐々に勢力は削られてしまい、
豊後に落ちて大友宗麟を頼りますが、
大友軍も耳川合戦… 続きを読む
油津湊は古来よりあった港で、
古くは油之津と呼ばれていたという。
百済の王が漂着した場所とも伝えられ、
大陸との貿易が行われていたようで、
倭寇の拠点にもなっていました。
江戸時代には飫肥藩領となっており、
特産品である飫肥杉の積出港となって、
大きな繫栄を遂げていたようです。
「油津湊… 続きを読む
安井家の墓の近くにある飫肥藩伊東家の墓所。
清武は薩摩藩と国境を接する重要拠点で、
飫肥藩では重臣を配置してこれを守り、
多くの藩士が在郷していました。
飫肥から遠く離れた清武では、
藩主の墓への参拝出来なかった為、
末寺の文永寺に僑墓が建立されています。
「伊東家僑墓… 続きを読む
儒学者安井息軒を輩出した安井家は、
飫肥藩伊東家に仕えた家臣でした。
南北朝時代に上野国安井村から移り住み、
出身地から安井姓としたようです。
江戸時代には19代安井朝堯が重用され、
清武奉行に任じられた他、
22代安井朝宣… 続きを読む
宮崎市清武にある伊東家墓所。
[伊東家祐堯公墓]となってはいますが、
伊東家11代当主伊東祐堯の他にも、
12代伊東祐国や13代伊東尹祐の墓、
更に15代伊東祐吉とされる墓もあります。
「伊東家墓所」。… 続きを読む
小倉処平は飫肥藩出身の秀才で、
郷党より「飫肥西郷」と称された人物。
西南戦争で飫肥隊を率いて戦い、
奇兵隊総軍監にもなっていますが、
和田越えの決戦で負傷してしまいました。
「小倉處平加療の地」。
決戦に敗れた西郷軍は長井村… 続きを読む