赤間関宿があったのは現在の唐戸周辺ですが、
新地会所、白石正一郎の小倉屋など、
意外と重要な史跡が集まっている下関駅西側。
現在の感覚では不便な位置のようですが、
勿論当時は下関駅はありませんし、
彦島側に伸びる大和町もありませんでした。
下関駅周辺。青い線が当時の海岸線。
赤丸の位置が主要な史跡の位置。
現在は完全に埋め立てられており、
海岸線が全く変わってしまっています。
このように大和町の埋立地が無いので、
唐戸への船での移動は目と鼻の先ですし、
歩いても2km程度の距離。
この様な地形であった為に碇泊が容易で、
浦には北前船が殺到していました。
今回は過去記事をリンクさせて、
周辺史跡を紹介してみます。
まずは竹崎町の小倉屋。
「白石正一郎旧宅跡」。
白石正一郎が営む清末藩御用達小倉屋の跡で、
現在は中国電力の敷地となっています。
小倉屋は竹崎浦の西端にあったようで、
立地的にはとても良い場所だった模様。
海側には専用の浜門があったようで、
船からの商品の搬入出に使われた他に、
志士達が人目に触れずに出入りしていました。
下関市竹崎町 白石正一郎旧宅跡
続いて今浦を経て新地周辺へ。
「小田海僊宅址」。
南画家小田海僊の旧宅跡。
長州藩から百石で召し出され、
江戸藩邸の御用絵師となったという。
ここは養子に入って幼少期を過ごした地で、
染物屋小田仙右衛門宅があった場所です。
下関市新地町 小田海僊宅址
「妙蓮寺」。
攘夷戦の際に藩兵の宿舎となっていた寺院。
萩の清光寺住職の隠居寺であったという。
暗殺された中島名左衛門の墓があります。
下関市新地町 妙蓮寺/中島名左衛門の墓
「高杉東行終焉之地」。
新地の庄屋林算九郎邸の離れだった場所で、
労咳を患った高杉晋作が最後を迎えた地。
この離れは「緑堂」と呼ばれていたという。
下関市新地町 高杉東行終焉之地
「長門国厳島神社」。
宗像三神(厳島三神)を祀る神社。
晋作が小倉戦争の戦勝祈願を行っており、
戦利品の大太鼓が奉納されています。
下関市上新地町 長門国厳島神社
「萩藩新地会所址」。
厳島神社下に設置されていた新地会所の跡。
功山寺で挙兵した晋作らは、
大した抵抗もなくここを占領しています。
下関市上新地町 萩藩新地会所址
続いて伊崎浦へ。
「關屋松兵衛旧宅」。
吉田松陰が北浦巡視の際に利用した船宿跡。
松陰はここに4泊しており、
下関周辺を巡っています。
下関市伊崎町 關屋松兵衛旧宅
「伊崎厳島神社」。
北浦巡視の際に松陰が参拝しており、
浦を一望したとされています。
下関市伊崎町 伊崎厳島神社/鈴ヶ森稲荷神社
「ひょうたん井戸」。
晋作が隠れて暗殺者から逃げたと伝わる井戸。
この中で一夜を過ごした為に、
晋作は体調を崩したとされます。
下関市伊崎町 ひょうたん井戸
この辺りはこのように史跡が多く、
上記では紹介していませんが、
更に北側に桜山神社や了圓寺等もあり、
とても面白い地区ではあるのですが、
どうもイマイチぱっとしません。
風俗街やヤ○ザの事務所かあるのも原因か?
でもこれだけの観光商材があるのですから、
なんとかすればなんとかなる気もしますね。
■関連記事■
・下関市唐戸周辺 赤間関宿跡
西国街道の終点。
・下関市彦島海士郷町 身投げ岩
伊崎から彦島の身投げ岩が望めます。
・松陰の北浦巡視⑥
吉田松陰の下関での行程。