大穂の集落より1km程山手に入った場所に、
宗生寺という曹洞宗の寺院があります。
文明15(1483)許斐城城主多賀隆忠が、
亡き父の菩提を弔う為に創建。
後に小早川家、黒田家等に庇護され隆盛し、
末寺10ヶ寺を有したという。
ここに小早川隆景の墓があります。… 続きを読む
「吉敷毛利家」タグアーカイブ
下関市中之町 引接寺/小早川隆景墓所
伊藤助太夫(久三)の墓を探し、
引接寺を訪れたのは7年前。
結局は助太夫の墓はそこには無く、
空月庵跡という別の場所にありましたが、
下関市本町 空月庵跡/本陣伊藤家墓所
江戸中期の伊藤家当主の墓や、
奈良屋入江和作の墓は見つけました。
下関市中之町 引接寺/伊藤家 入江家墓所
今回は7年ぶりに訪問し、
小早川隆景の分骨墓に参ります。
「本堂… 続きを読む
下関市豊田町 毛利秀包夫人引地君の墓
小早川元包の正室で元鎮の母である引地君は、
豊後の戦国大名大友宗麟の末娘。
父同様に洗礼を受けたキリシタンで、
洗礼名はマセンシアであったという。
久留米城主となった小早川秀包に嫁ぎ、
秀包もその影響を受けて洗礼。
久留米城下に天主堂… 続きを読む
下関市豊田町 毛利元鎮墓所
一門家吉敷毛利家初代当主毛利元鎮は、
小早川秀包の嫡男に生まれますが、
秀包は関ヶ原の戦いで西軍に属した為、
久留米13万石を改易されてしまいます。
秀包は元鎮らを連れて長州藩を頼り、
新たに知行地を与えられていますが、
その際に小早川姓を捨てて毛利姓に復帰。
しかし秀包はその翌年に病死してしまい、… 続きを読む
下関市豊北町 西楽寺/毛利秀包墓所
関ヶ原の敗戦で改易となった小早川秀包は、
毛利輝元によって再び召し抱えられて、
小早川姓を捨てて毛利秀包を名乗ります。
※小早川秀秋の裏切りを忌み嫌った為。
しかしその翌年に病死してしまい、
家督は嫡男の毛利元鎮が相続。
元鎮は父秀包の亡骸を滝部に葬りました。… 続きを読む