山口県山口市 泰雲寺/小早川隆景墓所

泰雲寺は山口市小鯖にある曹洞宗の寺院。
応永10年(1404)に大内盛見が建立し、
※盛見は大内家11代当主。
始めは闢雲寺と称したという。
大内教弘の時代に現在地に移転し、
※教弘は大内家13代当主。
教弘の菩提寺となっています。
その後に大内家は滅びますが、
小早川隆景の菩提寺となっており、
死後にその分骨が納められました。
奥方の問田大方もここに葬られ、
慶長14年(1609)の隆景十三回忌に、
その法名より泰雲寺と改称しています。


泰雲寺」。
寛永5年(1626)に火災により全焼。
大内時代に寄進された宝物や古文書類は、
この火災で全て消失してしまいます。
その後に再建されており、
幕末の文久3年に闢雲寺と複名しますが、
明治23年に再び泰雲寺に戻しました。

泰雲寺は詩人中原中也と所縁があり、
参拝するファンもいるという。
中原は親友に恋人を奪われ、
傷付いた心を癒すために故郷に帰った際、
泰雲寺を訪ねて老師品川雷応に会います。
品川老師は中原を近くの鳴滝に案内し、
※泰雲寺の傍を流れる鳴滝川の滝。
何も言わず一緒に滝を眺めたという。
中原の詩「悲しい朝」はその時の情景。
 河瀬の音が山に来る
 春の光は石のようだ
 筧の水は物語る
 白髪の嫗にさも肖てる

 雲母の口して歌ったよ
 背ろに倒れ歌ったよ
 心は涸れて皺枯れて
 巌の上の綱渡り

 知れざる炎 空にゆき!
 響の雨は 濡れ冠る!

 ———–
 われかにかくに手を拍く—


泰雲寺殿泰雲紹閑大居士供養塔」。
小早川隆景の供養塔。
隆景の墓は7つ。
既に訪問済みの引接寺宗生寺と、
今回の泰雲寺を除き、
三原の米山寺、京都の黄梅院
博多の聖福寺及び高野山にあります。


慈光院殿渓永智大姉御墓」。
小早川隆景正室問田大方の墓。
沼田小早川家当主小早川正平の娘で、
小早川繁平が当主となっていましたが、
病弱の為に隠居させられていました。
家臣らは竹原小早川家を相続した隆景に、
沼田小早川家も継がせようと画策。
※小早川家は沼田、竹原の2家に分かれ、
 それぞれが対立していた。

彼女は隆景に嫁いで両家は統一されます。
二人の間には子は出来ませんでしたが、
大変仲睦まじい夫婦だったようで、
側室は置かずに彼女を愛し続けました。
隆景の死後は吉敷郡問田に住み、
問田大方と呼ばれたという。
死後は夫の菩提寺泰雲寺に葬られ、
墓所も隆景の側にあります。


闢雲寺殿大基教弘大禪定門供養塔」。
大内家13代当主大内教弘の墓。
11代盛見の子で従兄弟大内持世の死後、
その家督を相続。
寛正6年(1465)に幕命で伊予に出陣し、
河野通春討伐に向かいましたが、
裏切って通春と結び幕府方と戦います。
しかしその陣中に病を患い、
興居島で病死してしまいました。

他に益田七内なる人物の墓もありましたが、
写真は撮り忘れてしまいました。
※後に再訪。
山口県山口市 泰雲寺/益田七内五輪塔
七内は問田益田家当主が名乗ったとされ、
問田益田家は須佐益田家の分家。
初代益田景祥は宗家20代益田元祥の次男で、
代々問田、深野等を領していたようです。
隆景の死後はその夫人を庇護し、
自領の問田に住まわせていたとのこと。
問田大方と景祥の関係性は不明。
吉敷毛利家を頼るならわかるのですが、
何故に景祥が面倒をみたのでしょう?
変な関係ではないと思いますが・・。

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