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歴代墓所から更に右手奥へ登っていくと、
高橋紹運、立花直次の五輪塔があります。
それ程広くないスペースに、
紹運と直次の五輪塔、顕彰碑、
岩屋城の戦い戦死者の慰霊碑、
朝鮮出兵戦死者の慰霊碑があります。
「安寧院殿天叟紹運大居士」。
家祖高橋紹運の五輪塔。
岩屋城の戦いで玉砕した紹運の首は、
島津勢の総大将島津忠長により、
首実験が行われた後に二日市村に埋められ、
胴体は岩屋城二ノ丸跡に埋葬されたという。
他に柳川市の天叟寺にも墓碑がある他、
太宰府市の西正寺も菩提寺となっています。
「紹運公碑」。
高橋紹運の顕彰碑。
希代の名将と称された紹運は、
立花道雪と共に風神、雷神に例えられ、
幾多の敵を撃破しています。
強さだけでなく情深く義に厚い人物で、
岩屋城の城兵全てが運命を共にしたのは、
それだけ慕われていたという事。
また斎藤鎮実の妹との婚姻が決まった後、
彼女は疱瘡を患って容姿が変わってしまい、
これを理由に破断が申し込まれますが、
紹運はそのまま彼女を正室に迎え、
後に立花宗茂、直次を儲けています。
後に豊臣秀吉は紹運の事を知り、
乱世の華であったとその死を惜しみました。
「鎮種候筑前州實満巌屋籠城供養
戦死之五百八員之霊」。
岩屋城の戦いで戦死した城兵の慰霊碑。
紹運が岩屋城を死地と定めると、
城兵もこれに倣って死に場所と決め、
全員が死兵となって防戦にあたり、
島津勢の大軍に一歩も引かず、
多くの敵兵を道連れにしました。
「大通院殿玉峯道白大居士」。
紹運の次男立花直次の五輪塔。
直次は初め高橋統増を名乗っており、
直次と改称したのは朝鮮出兵の頃。
兄の宗茂が立花道雪の養子となった為、
紹運の継嗣となって大友家に仕え、
父や兄と共に島津勢の北征に対抗します。
島津勢は父の玉砕により時間と兵を喪失し、
豊臣秀吉によって窮地を脱出。
後に兄と共に秀吉の直臣となりました。
しかし秀吉死後の関ケ原の戦いでは、
西軍として戦った為に改易処分となり、
浪人としての日々を過ごしています。
後に2代将軍徳川秀忠に召し出され、
最終的に5千石を与えられました。
「従五位下故主膳正立花大通公碑」。
6代藩主立花種周建立の直次の顕彰碑で、
三池藩随一の能率家芳賀貞の撰。
直次の功績や人柄などが刻まれています。
「直次公朝鮮供宝奉
戦死之士三十二員之〇」。
※〇の部分が欠けて判別不可。
霊か墓、碑など文字が、
刻まれていたと思われます。
直次は文禄、慶長の両役に従軍し、
碧蹄館の戦い、第二次晋州城合戦、
露梁海戦等で活躍しています。
これは朝鮮の役で戦死した家臣らの慰霊碑。
紹運の玉砕は三池藩の誇り。
江戸期の武士道にも沿っており、
幕府としても徳川家に関係ない話なので、
この逸話は称賛し易かったでしょう。
三池藩が誇りとした様子は、
下手渡陣屋跡に建てられた懐古碑からも、
伺い知ることができます。
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