玉木彦助は玉木文之進の嗣子で、
吉田松陰の従弟にあたります。
従兄の松陰とは仲が良かったらしく、
元服時に士規七則を松陰に贈られました。
世子毛利元徳の近従を務めるなど、
父や従兄に似て優秀であったようで、
松陰もその将来を期待していたらしい。
元治元年、太田市之進らの御楯隊に入隊。
高杉晋作の功山寺挙兵に御楯隊も呼応し、
内訌戦の大田絵堂の戦いが勃発しますが、
元治2年1月16日に赤村で負傷します。
赤村戦は晋作らが戦列に参加した戦いで、
萩政府軍の本陣正岸寺を夜襲しましたが、
この夜襲で彦助は負傷しました。
彦助は野戦病院であった海善寺に運ばれ、
回復の見込みが無いと悟り、
翌年1月21日に自害しています。
「法輪山海善寺」。
しあわせを呼ぶわらべ地蔵が並びます。
内訌戦時は本堂が諸隊勢の野戦病院となり、
前線より負傷者が運び込まれました。
彦助は海善寺の墓地に葬られています。
「正五位玉木彦助之墓」。
海善寺裏手の墓地に彦助の墓があります。
正五位を贈位されていますので、
それ以降に建てられた墓でしょう。
嫡子のいなくなった玉木家は、
乃木希典の実弟玉木正誼を養嫡子とし、
松陰の実兄杉民治の長女を娶りますが、
後の萩の乱で戦死してしまいます。
玉木文之進は実子、養子共に亡くしており、
本人も反乱に門弟の多くが参加した為、
先祖の墓の前で自刃しています。
■関連記事■
・美祢市 大田絵堂④/呑水峠、赤村の戦い
玉木彦助が負傷した内訌戦最後の戦い。
・防府市 桑山招魂場
御楯隊の招魂場。彦助の墓碑もあります。
・山口県萩市 前原騒動慰霊碑
萩の乱の慰霊碑。