豊臣秀吉の2度の朝鮮出兵により、
李氏朝鮮との関係は悪化しますが、
徳川家康は朝鮮との関係改善を進め、
李氏朝鮮に通信使の派遣を打診。
慶長12年(1607)より使節が派遣され、
以後12回これが続いています。
※1回目から4回目までは国交回復交渉や、
捕虜の返還が行われました。
5回目より将軍就任の祝賀のみが目的。
釜山より出発した通信使の船団は、
対馬を経て勝本浦に寄港しており、
平戸藩は上陸した通信使一行を迎接。
神皇寺の裏山一帯を掘り崩し、
埋め立て地を造成して境内を広げ、
これを迎接所として、
朝鮮通信使一行を迎えました。
「勝本浦」。
壱岐の北端にある港で、
対馬から続く朝鮮からの玄関口。
神功皇后が三韓征伐で風待ちし、
元寇では元軍の上陸地にもなっており、
豊臣秀吉の朝鮮出兵では、
兵站基地として機能しました。
江戸時代には朝鮮通信使が寄港し、
平戸藩による迎接が行われており、
古来より重要な港だったという。
勝本港周辺。
赤くぼかした辺りが迎接所跡で、
青くぼかした辺りが対馬屋敷跡。
「阿弥陀堂」。
神皇寺は廃仏毀釈で廃寺となっており、
後にこの阿弥陀堂が建てられました。
神皇寺には正使、副使、書状官が宿泊し、
他の下官は迎接所内の建物に宿泊。
450~500人の一行だったようです。
阿弥陀堂内にある神皇寺本堂の礎石。
面影を残す唯一のもの、
「聖母宮」。
迎接所の北側に鎮座する神社。
神功皇后が三韓征伐の際に行宮を建て、
風待ちをした場所とされており、
その際に良い風が吹いた事から、
ここを風本と名付けました。
その後に勝利を収めて凱旋した際、
これを記念して勝本と名付けたとされ、
敵の首101500をこの地に埋めたという。
後に行宮跡で神功皇后を祀るようになり、
これが聖母宮の起源となります。
「拝殿」。
祭神は息長足姫尊(神功皇后)及び、
足仲彦尊(仲哀天皇)と、
上筒男尊、仲筒男尊、底筒男尊の住吉三神。
朝鮮通信使はこの神社が、
三韓征伐の神功皇后を祀る神社とは、
知らなかったのではないでしょうか?
たぶん知っていたらひと悶着ありそうです。
あえて聖母宮の隣に迎接所を建て、
神功皇后に見守ってもらおうと考えたのか?
そんな気がします。
「馬蹄石」と、
「文永之役 元軍上陸地」。
神功皇后が乗馬した際、
その足跡が残ったとされる石。
文永の役での元軍上陸地でもあります。
「対馬屋敷跡」。
朝鮮通信使の一行には案内や警護の為に、
対馬藩が800~1000人を動員。
彼らの宿所として対馬屋敷が建てられました。
古そうな通路ですが江戸期には存在せず、
ここに対馬屋敷があったようです。
朝鮮通信使は勝本浦に19回寄港したようで、
寄港せずに通り過ぎる場合もあった模様。
寄港すれは1500人の一団が入港するのですから、
大変な騒ぎだったと思われます。
■関連記事■
・下関市阿弥陀寺町 朝鮮通信使上陸淹留之地
朝鮮通信使の本土初上陸地。
・山口県熊毛郡 上関御茶屋
朝鮮通信使の上関での宿所跡。
・広島県福山市 鞆の浦
朝鮮通信使の鞆の浦での宿所。
