青森県上北郡 七戸城跡②

前回のつづき。
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七戸城東門」。
七戸城の東門は文献に残る記録を基に、
平成20年に復元されたもの。
本城と呼ばれる本丸二ノ丸と、
貝の口と呼ばれる郭の谷間にあります。
訪問時は門が閉まっていました。
仕方なく脇から入って中へ・・・。


菖蒲園(のハズです・・・)」。
東門を抜けた先は菖蒲園らしいのですが、
雪でなにがなんだかわかりません。
用意した長靴を履き道なき道を進みます。
たまにヒザまで埋まったりしますが、
気にせず歩いて姫塚のある場所へ。


姫塚」。
かつての七戸城主七戸家国の娘稲姫が、
葬られたとされる場所。
稲姫の護衛に選ばれたのは、
辰之丞というだった若者で、
身分は低いが剣に優れて学もあり、
見事な竜笛を吹きました。
稲姫の護衛となった辰之丞は、
度々竜笛を姫に聞かせて慰め、
いつしか互いに惹かれあうようになる。
父家国は主家の南部家と戦う事を決意し、
周辺豪族の取り込みを開始。
そんな中で豪族の向坂某が稲姫を見初め、
家国に縁談を持ちかけます。
向坂の勢力を手に入れる為、
家国は縁談を了承。
祝言が執り行われる事となりました。
しかしニ人は夫婦となることを誓い、
駆け落ちを企てます。
しかしこの事が家国の耳に入り、
家国は辰之丞を誅殺。
辰之丞が死を知った稲姫は嘆き悲しみ、
毒を飲んで死んでしまいました。
姫の亡骸は城の片隅に葬られますが、
雨や風の激しい夜には、
悲しい顔をした姫の霊が現れたという。

ここから二ノ丸へ登れるのですが、
先ほどすでに行っているので、
姫塚の後方から水掘へ。

水堀」。
本城と北館の間の水堀。
水堀は柏葉公園入口まで残っています。


北館跡」。
雪で覆われています。たぶん更地でしょう。

七戸城は本丸、二ノ丸、北館、角館、
西館、下館、宝泉館、
貝の口等で分けられていますが、
それぞれがどのような役割があったのか、
説明されているものがありません。
江戸期の七戸代官所時代に関していえば、
本丸と二ノ丸のみが使用されたようで、
正式に七戸藩藩庁となってからも、
代官所そのままを使用したと思われます。

これにて七戸城跡の訪問は終えて、
七戸城本丸御門が移築されている青岸寺へ。

青岸寺山門(七戸城本丸移築門)」。
本丸より移築された門で、
かつては二層の楼門で上層には梵鐘を吊り、
両脇の袖門に仁王像が置かれてましたが、
大正末期に腐朽が著しかった為、
上層部と袖門を取り去り、
現在の形に整えられたとの事。

時間の関係で山門だけ撮って帰りましたが、
この寺には旧会津藩士らが建立した、
招戦没諸士之魂碑があったようです。
リサーチ不足でした・・・。

七戸で再スタートした七戸藩でしたが、
財政難の藩は領民から大豆を買い上げ、
売れた後の支払うとしました。
大豆は領民の凶作時の非常食でしたが、
明治元年、2年と領内で凶作が続き、
藩が大豆を買い上げた為に領民は飢え、
牛馬を食わなければならなくなります。
しかし藩の買い上げた大豆の支払いは滞り、
飢えた領民達の怒りは爆発し、
明治3年に大規模な百姓一揆が発生。
2000人の農民が七戸藩庁へ押し寄せ、
10ヶ条の要求を藩に提示し、
藩はこの要求に答えました。

同族の八戸藩でも、
大豆の買い上げを行っていますが、
代金は即金で支払っていましたので、
これを聞いていた七戸領民達は
相当の不満だったと思われます。
それほど藩財政が困窮したいたのでしょう。
七戸藩は廃藩置県七戸県となった同年に、
弘前県に吸収されています。

【盛岡新田藩→七戸藩】
藩庁:七戸陣屋(江戸期は江戸藩邸のみ)
藩主家:麹町南部家(七戸南部家)
分類:1万1000石、外様大名
   (盛岡藩支藩、定府)

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