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盛岡南部家支流の旗本寄合麹町南部家は、
盛岡藩より蔵米6千石の新田分地を受け、
定府大名盛岡新田藩となりました。
2代南部信誉は北方警備の功績によって、
無城大名から城主格大名となり、
盛岡藩は領地の割り当てを命じられた為、
幕府に三本木を陣屋地として報告。
しかし実際は陣屋は建設されておらず、
蔵米支給が続けられたようです。
戊辰戦争後の新政府の方針で、
新田大名は諸侯として認めなかった為、
麹町南部家に分知が実施された報告。
七戸代官所を陣屋として、
正式に1万1千石の領地を確定し、
七戸藩を立藩させました。
その上で藩主南部信民は千石減封で隠居。
養嫡子南部信方が旧領を相続しています。
七戸代官所は元々七戸城があった場所で、
廃城となった城跡に建てられた代官所。
幕府には要塞屋敷として承認されています。
「大手虎口跡」。
訪問時は大雪が降った日。
行くか行くまいか迷った挙句の訪問でした。
「宝泉館跡」。
大手虎口の左側の郭で、
高くなっている場所が宝泉館跡。
現在はツツジ園となっているようですが、
訪問時は雪で全く何も見えず。
宝泉館の名称の由来は、
宝泉坊という僧侶がいたからとのこと。
「下館跡」。
大手虎口の右側の郭。
雪でよくわかりませんが更地のようです。
かつては幼稚園があったらしい。
「西館跡」。
宝泉館の一段上の郭で、
更地のようですが雪でよくわかりません。
「柏葉公園」。
七戸城の本丸跡及び二ノ丸跡は、
柏葉公園として整備されており、
公園敷地内が七戸代官所でした。
入口あたりが代官所の西御門。
二ノ丸跡はグランドや児童公園なのですが、
全て雪で覆われてしまっています。
写真はグランドのあるあたり。
雪でよくわからないのですが、
とにかく結構な広さはあります。
「七戸城址」碑。
二ノ丸跡とやけんぼりを隔てて本丸跡。
本丸跡は七戸神明宮の境内となっています。
「七戸神明宮」。
七戸氏の祖南部政光が総鎮守として勧請し、
はじめ新町に鎮座していましたが、
城下を何度が遷座した後、
明治26年に現在の位置に遷座されました。
巨大なモミやスギが立ち並んでいますが、
これらは江戸時代以前のものなのでしょう。
とりあえずこれで一旦柏葉公園を出て、
次回は東門側から城へ入ってみます。
つづく。
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