筑前街道は江戸時代前期の参勤道で、
多くの大名がこの街道を通行していました。
後に薩摩街道の整備が行われると、
通行量が減って脇街道へと移行。
メインルートからは外れています。
今回はそんな筑前街道の横隈宿を訪問。
小郡市横隈周辺。緑の線が筑前街道で、… 続きを読む
福岡県小郡市 横隈宿跡
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筑前街道は江戸時代前期の参勤道で、
多くの大名がこの街道を通行していました。
後に薩摩街道の整備が行われると、
通行量が減って脇街道へと移行。
メインルートからは外れています。
今回はそんな筑前街道の横隈宿を訪問。
小郡市横隈周辺。緑の線が筑前街道で、… 続きを読む
北方追分は長崎街道の本道である塚崎道と、
脇街道である塩田道の分岐点。
かつての長崎街道は塩田道が本道でしたが、
塩田川の氾濫で度々通行不能となった為、
これが不便であることから、
塚崎(武雄)に迂回されるようになって、
塚崎道が本道となっていったようです。
北方町大字志久周辺。
緑の線が長崎街道の本道(塚崎道)で、
青い線が脇街道(塩田道)。… 続きを読む
宝永5年(1708)に多久領主4代多久茂文は、
郷校東原庠舎の精神的支柱とする為に、
敷地内に多久聖廟を竣工させます。
それ以前の元禄期(1688-1704)には、
中華より孔子及び四哲像を取り寄せて、
※四哲:孔子高弟顔子… 続きを読む
神代の陣屋町南端に下坊墓地があり、
そこが神代鍋島家の墓所となっています。
「下坊墓地」。
石垣に囲まれた下坊墓地。
大きな自然石の墓石が並んでおり、
神代鍋島家初代及び2代当主の墓と、
その一族の墓所となっています。
「孝岳永忠大禅定門(左)」、
「玉雲妙慶大姉(右)」。
神代鍋島家初代当主… 続きを読む
慶長13年(1608)に佐賀藩肥前神代領は、
鍋島直茂の兄鍋島信房に与えられ、
以降は廃藩置県まで神代鍋島家が、
代々神代領を統治してきました。
その拠点となっていた神代陣屋跡には、
神代鍋島家の邸宅が建てられており、
これを平成16年に当時の… 続きを読む