清末に用があったので清末陣屋跡に再訪。
市内とはいえ行動範囲とは外れていますし、
これといった遺構があるわけでもない。
なかなか訪問する機会も無いのですが、
気が向いたのでちょっと行ってみました。
清末藩は唯一の孫藩という立場にある藩。
長州藩の支藩長府藩のさらに支藩で、
長州藩を親とすれば孫のような立場でした。
全国の他の支藩が分家を作り、
1万石以上を与えた例はありましたが、
幕府に認められたのは清末藩だけ。
※幕府… 続きを読む
清末に用があったので清末陣屋跡に再訪。
市内とはいえ行動範囲とは外れていますし、
これといった遺構があるわけでもない。
なかなか訪問する機会も無いのですが、
気が向いたのでちょっと行ってみました。
清末藩は唯一の孫藩という立場にある藩。
長州藩の支藩長府藩のさらに支藩で、
長州藩を親とすれば孫のような立場でした。
全国の他の支藩が分家を作り、
1万石以上を与えた例はありましたが、
幕府に認められたのは清末藩だけ。
※幕府… 続きを読む
十朋亭維新館の隣に整備された庭があり、
三文字屋跡の碑が建てられています。
「三文字屋跡」。
三文字屋は和紙問屋。
長州の和紙は防長三白(四白)のひとつとして、
藩に奨励された産業のひとつです。
長州和紙は当時全国シェア30%を誇っており、
徳地和紙や山代和紙は品質が良かったとか。
三文字屋は和紙元締めであったようで、
当主は名字帯刀も許されています。… 続きを読む
毛利元就の両川吉川元春と小早川隆景。
嫡男毛利隆元を補佐し、
中国制覇に大きく貢献しており、
一般的に三本の矢の教えで知られるように、
隆元とその次代毛利輝元を盛り立てました。
吉川元春は戦上手として知られ、
その戦跡は76戦64勝。… 続きを読む
館林藩は榊原康政により立藩された譜代藩。
康政は徳川四天王のひとりで、
[無]の旗印を用い数々の戦で戦功を挙げ、
小牧長久手の戦いでは、
羽柴秀次の軍勢を壊滅に追い込み、
森長可、池田恒興を討ち取っています。… 続きを読む
長州藩が山口に藩庁を移転したことにより、
役職ある藩士達も山口に転住しますが、
その宿所とされた民家が十朋亭です。
十朋亭は醤油商亀屋を営む萬代家の離れで、
藩庁移転後に最初に滞在したのは、
当時の執政周布政之助だったとされます。
その後、… 続きを読む
今更ながら萩城(指月城)に行ってみました。
関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は、
山陽、山陰8ヶ国から、
周防、長門2ヶ国に厳封され、
本拠地である広島も奪われた為に、
新たに城を築城することになります。
山口… 続きを読む