長州藩は下関で外国船砲撃を行っており、
これは一般的にも知られる事件ですが、
その137年前の享保11年(1726)に、
須佐湾に侵入した外国船に対して、
その討ち払いを行っています。
永代家老益田家の領地須佐湾に唐船が現れ、
これに対して攻撃を加えて沈めた事件で、
当時の一隻の唐船さえ難儀していたのに、
西洋の黒船… 続きを読む
長州藩は下関で外国船砲撃を行っており、
これは一般的にも知られる事件ですが、
その137年前の享保11年(1726)に、
須佐湾に侵入した外国船に対して、
その討ち払いを行っています。
永代家老益田家の領地須佐湾に唐船が現れ、
これに対して攻撃を加えて沈めた事件で、
当時の一隻の唐船さえ難儀していたのに、
西洋の黒船… 続きを読む
萬福寺には旧益田領主益田兼見の墓もあり、
傍らには説明板も建てられています。
「益田兼見の墓」。
益田兼見は益田家11代当主で、
知勇兼備の武将であったという。
南北朝の争乱では、
足利尊氏方の上野頼兼を助け、
北朝勢として石見の各地を転戦しました。
尊氏の子足利直冬が南朝に帰順すると、
兼見も南朝に転じていますが、… 続きを読む
須佐の郷校である育英館は、
益田家27代当主益田元道が開いた郷校。
益田家家臣の子弟教育の為の学校でした。
益田家33当主益田親施は、
吉田松陰から山鹿流兵学を学んでおり、
その縁で松下村塾との交流があったようで、
双方で… 続きを読む
益田家は長州藩の永代家老家で、
長州領北東端須佐を所領としていました。
益田家は鎌倉時代より、
現在の島根県益田市を本拠としていますが、
関ヶ原の戦いで主家が減封した為、
代々統治した所領を手放しています。
益田の隣須佐が所領とされたのは、
益田を取り戻すつもりだったのか?
それとも単なる偶然?… 続きを読む
須佐は長州藩永代家老益田家の所領。
益田家は現在の島根県益田市を所領とし、
代々統治していましたが、
関が原の戦いで毛利家が減封された際、
益田氏も須佐に転封となりました。
須佐の地名は文字通り、
スサノオノミコトと関係深いようですが、
神話の話なのでよくわかりませんが、
益田氏が治めるようになってからは、
北前船… 続きを読む
妙義寺は長州藩の本陣と野戦病院が置かれ、
寺の墓所には長州藩士4人のお墓があります。
「妙義寺」。
石見益田氏の菩提寺だったようで、
道路向かいに益田兼堯の銅像もあります。
三家老のひとり益田親施はその子孫。… 続きを読む