福井城は福井藩越前松平家の居城。
徳川家康の次男である結城秀康によって、
柴田勝家の居城北ノ庄跡に築城されました。
関ヶ原の戦いの前哨戦である会津征伐で、
石田三成の挙兵に対応して徳川本隊は反転。
秀康は上杉勢の抑えとして残り、
戦後にこの功績により下総10万石から、
越前68万石に加増転封となります。
秀康は入封後は速やかに築城を開始し、
全国諸大名の御手伝普請を受け、
約6年の歳月で北ノ庄城を完成させます。
後に3代藩主松平忠昌が北ノ庄の名称に、
敗北に通じる[北]が付いているのを嫌い、
地名を福居と改称した事により、
北ノ庄城も準じて福居城と改称され、
さらに元禄の頃に福井に変化しています。
「御本城橋」。
福井城は本丸跡のみが残されており、
県庁、県会議事堂、県警本部が置かれ、
現在も政治の中心となっています。
「結城秀康公」像。
結城秀康は家康の次男でしたが、
長男徳川信康が切腹した為、
本来ならは継嗣となるはずでした。
しかし豊臣秀吉の養子となった為、
異母弟徳川秀忠が後継者となっています。
後に関東の名門結城家の名籍を継ぎ、
越前に移った後に松平姓に戻しますが、
病に倒れ34歳で死去しています。
福井藩の当初の表高は68万石でしたが、
分知、跡継争いが続いて大幅に減封となり、
一時は25万石にまで削減され、
最終的に32万石に落ち着きました。
「福井城本丸復元図」。
典型的な平城の本丸。
石垣以外の遺構がほとんど無いし、
内部は現在も県行政の本拠地なので、
見学するべきところも限られています。
「天守櫓台」。
県警本部の裏手にある天守台跡。
天守曲輪の石垣と天守台の2段の石垣。
天守は望楼型の四重五階だったようですが、
寛文9年(1669)の焼失後は再建されず、
対角の南西隅の巽櫓が採用されました。
「福の井」。
天守曲輪内にある井戸で、
福井の地名の由来になったともされます。
城外への抜け穴があるという伝承もあり、
過去に調査が行われたとされていますが、
結果がどうなったのかよくわかりません。
見つからなかったんでしょうね。
天守のあった場所。
芝生が植えられ整備されています。
「山里口御門」「御廊下橋」。
山里口御門を出て御廊下橋を渡る。
県整備の一環として復元されたもので、
藩主は住居がある西三の丸御殿から、
この橋と門を渡って移動したという。
廊下橋は徳川、松平家の城に見られますね。
※和歌山城、府内城など。
御廊下橋から北へ。
「福井神社」。
16代藩主松平慶永(春嶽)を祀る神社。
日本最後の別格官幣社だったようで、
創建は昭和18年です。
「福井神社拝殿」。
総コンクリート造でモダニズム様式の拝殿。
創建当時は総檜造の社殿だったようですが、
空襲により焼失してしまいました。
現在のものは戦後に再建されたもので、
福井出身の建築家五十嵐直雄によるもの。
「松平春嶽公像」。
拝殿の横にある松平春嶽の銅像。
田安家の徳川斉匡の八男として生まれ、
急逝した15代松平斉善の末期養子となり、
16代福井藩主となりました。
財政難であった藩を建て直す為に、
俸禄三年間半減と出費五年削減等の倹約や、
中根雪江、由利公正による財政改革を行い、
多くの藩政改革の断行した他、
将軍継承問題で南紀派と激しく対立。
安政の大獄で蟄居謹慎となりますが、
桜田門外の変の後に復帰し、
政事総裁職に就任しています。
徳川慶喜を補佐して公武合体を推進し、
動乱期の幕府を牽引しました。
維新後は内国事務総督、民部官知事、
民部卿、大蔵卿と歴任しますが、
明治3年に全ての政務から退いて引退。
明治23年に死去しました。
福井藩には優秀な藩士が在籍していた他、
熊本藩から横井小楠を招くなどしており、
同じ尊皇派の親藩でも水戸藩とは違い、
過激な藩士は少なかったようです。
【福井藩】
藩庁:福井城
藩主家:越前松平宗家
分類:32万石、親藩大名
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5代及び7代藩主の墓所。
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かつての歴代墓所。
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