元治元年に禁門の変で長州藩は敗れ、
幕府による第一次長州征伐が開始。
これを受けて長州藩では俗論派が台頭し、
幕府への謝罪恭順が模索されます。
奇兵隊及び膺懲隊では幕府を迎撃すべく、
三田尻から徳地への移転を申告。
これが許されて両隊は徳地に入りました。
「正慶院」。
正慶院は徳地での本陣となった寺院で、
徳地への各入口からは尾根の背後に位置し、
見えにくい場所だった事から、
両隊の本陣に選ばれたようです。
「本堂」。
藩政府は諸隊へ解散を命じますが、
奇兵隊軍監山縣狂介はこれを無視。
新装備されたミニエー銃や、
散兵戦術の訓練を半月間行った後、
両隊は山口に陣を移しました。
お寺の由緒等は不明。
「高杉晋作句歌碑」。
元治元年10月27日。
俗論派の追手から逃れた高杉晋作は、
山縣に決起を促していますが、
これを「時期相応」と断っています。
ともしび火の影ほそく
見る今宵かな
これは山縣と別れる際に行燈に書いた句で、
晋作は徳地から富海に向かい、
海路で下関の白石邸に向いました。
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