出張で福井市に2週間滞在。
以前来た時に訪問できなかった史跡を、
余った時間で巡ってみました。
由利公正宅碑(記事はこちら)の川向いに、
横井小楠が寄留した跡地があります。
「横井小楠先生寄留宅跡」。
熊本藩士であった横井小楠は、
才知ありながら熊本藩では用いられず、
私塾小楠堂を開いて門弟を育てていました。
そこに福井藩士三寺三作が入門。
三寺によって小楠の名が福井藩に知られ、
藩主松平慶永(春嶽)によって招かれます。
肉親の不幸などで熊本に戻りながらも、
小楠は計4回も招集されており、
4度目はこの場所を寄留宅としました。
文久3年には坂本龍馬が訪れており、
意気投合して三岡八郎(由利公正)宅へ。
3人で時勢を語りあったようです。
横井小楠寄留宅跡より1本北側の道の角に、
異人館跡の碑があります。
「異人館跡」。
理化学教師W・E・グリフィスの居館跡。
福井藩は慶応3年に留学生を米国に送り、
留学生日下部太郎はラトガース大学にて、
上級生のグリフィスと出会いました。
日下部は極貧の中で勉学に励みますが、
卒業目前に病に倒れて志半ばで死去。
グリフィスは日本人の勤勉さに心打たれ、
日本で教鞭を振るう事を決意して来日し、
福井藩に雇われて理科を教えました。
廃藩置県後は大学南校で教えた後、
帰国して牧師となっています。
「日下部太郎、グリフィス像」。
横井小楠寄留宅跡より堤防に上がると、
日下部とグリフィスの銅像があります。
日本人の勤勉さは美徳のひとつであり、
それに魅了されて外国人がやって来た事は、
素晴らしい事だと思います。
横井小楠は福井藩で政治顧問として活躍し、
藩政改革や幕政改革に参画しました。
新政府発足後は参与に任じられており、
その活躍が期待されましたが、
十津川郷士らに暗殺されています。
暗殺理由は欧米追従者だというもので、
事実無根の勘違いによるものでした。
TwitterなどのSNSが普及する現在、
政治的ニュースの第一報が発信されると、
即座に批判をアップする人達がいる。
結局は第二報、第三報で真実が判明し、
大恥を掻いているケースが多い。
その報道が真実であるのか、
そうでないのか裏付けも取らず、
誤報を信じて行動に移すという愚。
芸能人やスポーツ選手だけではなく、
意外に学者や知識人、報道関係者にもいる。
SNSでの発信は現代の凶器であり、
それは暗殺にも似たものとなっています。
方法は変われど何ら変わっていない。
科学は格段に発展していても、
人間は進化していないようですね。
■関連記事■
・京都府京都市 京都霊山護國神社④
霊山護国神社の横井小楠の墓。
・福井県福井市 福井城跡
福井藩越前松平家の居城跡。
・福井県福井市 由利公正宅址ほか
由利公正の旧宅跡。