天誅組の変で敗れた中山忠光は、
天誅組の生き残りと共に長州に逃れ、
長州藩は忠光を長府藩へ預け保護させます。
忠光は公儀のお尋ね者であった為、
隠密に悟らさずに潜伏させる必要があり、
そこで選ばれた潜伏地が延行村でした。
延行は現在も使用されている地名ですが、
地元民もあまり知らない場所で、
民家の少ない田園地帯。
幹線道路も走っていません。
下関北運動公園の裏手(南側)あたりに、
中山忠光が最初に潜伏した場所があります。
綾羅木川北側の綾羅木や延行の田園風景は、
下関旧市内では珍しい光景。
下関第二球場の真南に潜伏地があります。
「中山忠光朝臣隠棲之地」。
この場所に6帖、4.5帖と土間という、
わずか10坪足らずの粗末な家があり、
そこが隠棲地とされました。
ここに文久4年1月4日から、
元治元年7月1日の約6カ月ほど潜伏。
※文久4年と元治元年は同じ年。
殆ど座敷牢のような状態だったようで、
忠光には辛い日々だったのでは?
何度も抜け出して馬関へ行ったりしては、
従者を困らせていたとされており、
恩地とみが派遣されたのもこの時期から。
※恩地とみは後に忠光の子仲子を産みます。
碑の前には小さな井戸がありますが、
これは当時の家屋にあったものという。
約6ヶ月の潜伏の後、
湯玉、田耕、黒井、宇賀、川棚と転居し、
その後再び田耕で潜伏しますが、
そこで長府藩士に殺されてしまいます。
赤穂浪士を預かった件もそうですが、
どうも長府藩というのは、
人を預かる時の待遇が酷いようですね。
※赤穂浪士の一部を預かった長府藩は、
初め罪人として浪士達を扱い、
他藩に比べて浪士達の待遇が悪いことを、
世間に非難されて待遇を改めた。
跳ねっ返り公卿の保護に手が余り、
殺してしまうという暴挙を犯した長府藩は、
忠光の死をこの延行の地での病死とし、
この地に近い綾羅木の浜に埋葬しています。
暗殺はもちろんの事ですが、
住居を転々とさせたことも隠しました。
忠光を暗殺した理由は謎ですが、
長府藩の俗論派が幕府への恭順の証として、
亡骸を幕府方に渡そうとしたとされます。
しかしその死からわずか2ヶ月後には、
高杉晋作のクーデターにより、
正義派政権が誕生していることを考えると、
皮肉としか言いようがありませんね。
■関連記事■
・天誅組以前の中山忠光①
下関に潜伏する前の忠光。
・中山忠光の幽霊
忠光は亡霊となって恨みを晴らします。
・下関市豊北町田耕 夜討峠
忠光の遺体を一時埋めた場所。
・下関市豊浦町北宇賀上畑 常光庵
宇賀の忠光潜伏地。
・下関市豊浦町川棚 三恵寺
川棚の忠光潜伏地。
・下関市豊浦町室津 観音院
室津の忠光潜伏地。
・下関市豊北町田耕 本宮中山神社
忠光が殺害された現場。
・下関市綾羅木 中山神社
忠光を祀る神社と墓所。