JR上嘉川駅の北東側の山側に、
真田四郎という人物の墓があります。
どうしても世代的に真田四郎と聞くと、
宇宙戦艦ヤマトを思い出しますが、
こちらは真田士郎ですので、
そちらとは関係は全く無いでしょう。
この真田四郎という人物は、
窪田真吉という本名の土佐出身の志士で、
魚屋の行商の息子であったようです。
生まれつき恵まれた偉丈夫で、
岩ヶ嶽の四股名も持っていたという。
後に家業を継いで行商に励みつつ、
郷士に混じって剣術等も習い、
やがて時勢に触れて勤皇を志すようになり、
文久3年に故郷を捨てて長州に走りました。
長州では脱藩浪士らの組織忠勇隊に所属し、
翌元治元年に禁門の変に参加。
これに敗れて長州に落ち延びています。
「山陽道 一里塚跡」。
上嘉川踏切より西国街道(山陽道)を東上。
100m程度行くと一里塚跡があります。
これを目印にもう少し進んだ左側に、
線路を越える橋が設置されていますので、
これを渡って山道へ。
少し登ると小さな墓地が現れます。
「土藩真田四郎源幸利神霊」。
真田四郎の墓。
長州への期間後は嘉川浪士隊として、
明正寺に駐屯していたようですが、
長州内訌戦では高杉晋作に呼応し、
三田尻海軍局を襲撃しており、
内訌戦の勝利に少なからず貢献しました。
しかしその後の慶応元年6月12日に、
突如として明正寺にて切腹しています。
彼の死には色々と謎があって、
須佐益田家家中の内訌に巻き込まれ、
俗論派の手助けをしたとか、
酒に酔って通行人を斬り殺した為、
その責を同士に追及されたとか、
実際にはよくわからない。
とにかく詰腹を切らされたようで、
切腹の際には腹から腸を引きずり出し、
明正寺の天井へ投げつけたとのこと。
余程無念であったのは間違いありません。
自責の念があるならそこまでしないだろうし、
少なくとも酒に酔って・・ではなさそうです。
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