天王寺墓地にある大野右仲の墓。
※正確には谷中霊園ではありませんが、
寛永寺墓地、天王寺墓地も含め、
谷中霊園として記事にしています。
大野右仲といえば高杉晋作の友人ながら、
後に箱館新選組の隊士となっており、
土方歳三と共に戦った稀有な人物です。
「大野氏累代之墓」。
唐津士族大野家の累代墓。
右仲は儒学者大野肯堂の長男で、
父が藩校盈科堂の教授として招聘された際、
父子共に唐津藩の藩士となっています。
江戸に出て昌平坂学問所に学んでおり、
その際に同じく学んでいたのが晋作で、
二人は馬が合って友人となったという。
晋作が北関東への遊学の出る際、
桂小五郎、久坂玄瑞等の長州藩士らが、
見送りに駆け付けていますが、
その中で唯一唐津藩士として参加したのか、
この大野右仲(又七郎)でした。
長州藩士らの見送りに唯一参加するのは、
結構度胸がいるものでしょうし、
普通は遠慮するもの。
勿論晋作の紹介で面識はあったかもですが、
やはりそういう席に参加するのは、
親友との別れの席だったからでしょう。
試撃行日譜によれば見送りの連中を、
皆予、平生の真の知己なり
としています。
後に唐津藩世子小笠原長行は、
幕長戦争で征長軍の指揮を執っており、
唐津藩と長州藩は敵同士となりますが、
この間の右仲の動向については不明。
しかし右仲は長行と非常に近しく、
長行と共に箱館まで戦っており、
新選組に加入して頭取となり、
後に土方歳三の補佐を務めました。
箱館戦争末期の明治2年5月11日。
右仲は土方と共に一本木関門へ向い、
その後に土方と別れて戦っていましたが、
千代ヶ岡陣屋へ撤退した際、
土方の戦死を知らされています。
大野は相馬主計に土方の死を伝えたともされ、
相馬と共に弁天台場で戦った後に降伏。
謹慎処分を受けた後に許された後、
明治政府に出仕しており、
久美浜県、豊岡県の権参事を務め、
以後は各地の郡長、警部長を歴任しました。
明治26年、死去。
墓所は天王寺墓地。
■関連記事■
・試撃行日譜①
右仲は試撃行へ向かう晋作を見送る。
・佐賀県唐津市 唐津城
唐津藩小笠原家の居城跡。
・東京都日野市 石田寺/土方歳三墓所
新選組副長土方歳三の墓。