嘉瀬川は古来より灌漑利用された河川で、
江戸時代には佐賀藩の治水工事が度々行われ、
筑紫平野の穀倉地帯の水利を担いました。
しかし同時に水害も多く発生しており、
現在も根本解決に至っていないという。
「嘉瀬川ダム」。
昭和48年の着手から40年の歳月を掛け、
平成24年竣工した多目的ダムです。
嘉瀬川ダム建設で水没する160戸の補償等、
諸問題でこれだけの期間を要したとのこと。
住民の移転の他に寺社の移転も行われますが、
宗源院にあった神代勝利の墓は、
嘉瀬川ダム東岸に移築されており、
鎮魂と地域の安寧が祈願されています。
「神代勝利公墓地」。
ダムを臨む位置にある墓地。
勝利の墓の他にも住職の墓らしき無縫塔や、
被葬者不明の宝篋印塔が沢山ありました。
生憎の天気ではありましたが、
非常に景色の良い場所です。
「覺譽賢利大禅定門」。
佐賀藩御親類家神代家の祖神代勝利の墓。
神代氏は武内宿禰の後裔とされており、
元々は熊代と書いたのを神代と改め、
高良大社大宮司を務めていた名家でした。
しかし父神代宗元の代に没落したようで、
幼少期は千葉興常に養われています。
武芸に非凡な才能を持っていたとされ、
後に三瀬の野田宗利に請われており、
剣術師範となって多くの門弟を指導。
その人柄や実力が周辺の豪族にも認められて、
山内豪族の総領に推挙されるに至りました。
以後は龍造寺家と対立しており、
龍造寺隆信とは幾度も交戦。
二度も隆信に山内を奪われてはいますが、
その度に奪い返しています。
勝利は次男神代長良に家督を譲って隠居し、
永禄8年(1565)に死去。
隆信はこれを好機として長良を攻めており、
敗れた長良は大友宗麟の配下となって、
隆信と度々戦っていますが、
後に龍造寺家に降って家臣となり、
子孫は佐賀藩御親類として厚遇されました。
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