慶応4年1月11日。
岡山藩は新政府の命による西宮警備の為、
家老日置帯刀に命じて藩兵を向かわせます。
当時の西国街道は外国人居留地に接した為、
幕府は外国人とのイザコザを避ける目的で、
西国往還付替道を設置していましたが、
日置隊は大砲や兵糧を運んでいた為に、
これを通らずに従来の街道を通過。
日置隊が三宮神社前に差し掛かった際、
仏人水兵2名が行列を横切ろうとした為、
砲兵隊長瀧善三郎正信が槍でこれを制止し、
強引に横切ろうとする水兵を負傷させます。
これに水兵らは一旦引きましたが、
すぐに拳銃を持って数人が駆け付けた為に、
日置隊の藩兵が発砲して銃撃戦に発展。
米英の部隊も巻き込んでいますが、
この銃撃戦での死傷者はありませんでした。
「三宮神社」。
事件はこの三宮神社前で発生。
航海安全や商売の神として崇敬を受け、
宗像三神の湍津姫命を祀っています。
神戸三宮の地名の由来となった神社。
「神戸事件発生地」。
境内角に設置された跡碑と説明板。
銃撃戦後に諸外国は居留地防衛を名目とし、
市街地を占領して兵庫津の日本船を拿捕。
新政府は諸外国との交渉を開始し、
諸外国から在留外国人の安全確保と共に、
日本側責任者の処刑が要求されます。
日本側の行為は武士として正当なもので、
双方共に死傷者も出ていないのに、
責任者の処刑は重すぎるとの声もあり、
日本側は助命を嘆願しますが、
諸外国はこれを受け入れませんでした。
岡山藩は結局この要求を受け入れ、
責任者瀧善三郎の切腹及び、
日置帯刀の謹慎処分が行われています。
日置隊は当時三門の大砲を装備し、
これを用いて応戦したとされます。
この大砲は年代的に同時期のものとされ、
参考としてここに置かれたとのこと。
「三宮神社前」。
実際に事件が起こった場所。
西国街道の街道筋にあたり、
西側に行くと元町商店街に至ります。
発足間もない新政府での初の外交事件は、
瀧善三郎の命と引き換えに解決しますが、
生麦事件や薩英戦争後の薩摩藩や、
下関戦争後の長州藩では、
このような弱腰ではなかった筈。
残念ながら交渉は伊藤俊輔、五代才助と、
薩長の出身者も関わっています。
実際に陸戦で戦闘すれば犠牲は出ますが、
数の論理で日本側が必ず勝利しますし、
諸外国もバカではないので引く筈。
神戸が植民地になる可能性があったとか、
この交渉を評価する意見もありますが、
個人的には残念と言わざるを得ません。
もちろん自分の命を引き換えにして、
事件を解決させた瀧善三郎は英雄です。
これは交渉とは別のお話。
「助命が叶わぬなら一戦仕りましょうか?」
これ位言える度胸のある人が、
交渉にあたるべきだったのでしょう。
■関連記事■
・岡山県岡山市 東山墓地/瀧善三郎墓所
神戸事件の犠牲者瀧善三郎の墓。
・兵庫県神戸市 能福寺/瀧善三郎正信碑
神戸事件の犠牲者瀧善三郎の供養塔。
・岡山県岡山市 松琴寺/日置家墓所
岡山藩家老日置家の歴代墓所。
