奥の院墓地にある米沢藩上杉家の墓所。
米沢上杉家は軍神上杉謙信を家祖とし、
越後の雄として恐れられていました。
謙信の死後は後継者争いが発生し、
これに勝利した上杉景勝は豊臣秀吉に臣従。
後に越後を離れ会津120万石に移封します。
秀吉の死後は徳川家康と対立し、
家康による会津征伐が開始されますが、
石田三成の挙兵から家康は西上。
東軍の伊達政宗や最上義光らと戦いますが、
※慶長出羽合戦。
関ケ原の勝敗の報を受けて降伏しました。
上杉家は米沢30万石の大減封となり、
後に15万石に減封されています。
「上杉謙信霊屋」。
藩祖上杉謙信と初代藩主上杉景勝の霊屋。
謙信は天正2年(1574)に上洛した際、
足を延ばして高野山にも訪れているようで、
その際に法名を贈られたとされます。
この霊屋内部には須弥壇があり、
「為権大僧都法印謙信(右)」、
「為権大僧都法印宗心(左)」の2基の墓碑が、
その上に収められているとのこと。
霊廟左側にある3基の五輪塔。
「清光院殿月汀正心大姉(左)」、
「大上院殿権大僧都隆心法印(中央)」、
「上生院殿権大僧都瑛心法印(右)」。
3代上杉綱勝の正室媛姫(清光院)の墓、
2代藩主上杉定勝の墓、
3代藩主上杉綱勝の墓。
媛姫の墓のみ鳥居が付いていますが、
元々はそれぞれに鳥居があった模様。
2代定勝は初代景勝の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しました。
米沢城下の整備や領内の総検地、
家臣団の知行再編等を行っており、
藩政の転換を行った藩主とされます。
3代綱勝は定勝の次男に生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
保科正之の長女媛姫を娶っていますが、
媛姫は19歳の若さで死去。
この為に継室を迎えていますが、
寛文4年(1664)に26歳で病死しています。
男子なく世継も指名していなかった為、
米沢藩は無嫡断絶の危機となりますが、
媛姫の父で岳父の保科正之が仲介し、
高家吉良義央の長男を末期養子に迎えて、
※母は綱勝の妹で吉良の正室参姫。
家名は存続される事となります。
しかし全くお咎め無しとはいかず、
石高は15万石と半減させられており、
以後の財政は逼迫する事となりました。
霊屋の右側にある4基の五輪塔。
右側から、
「樹徳院殿法印権大僧都泰心」、
「法林院殿法印権大僧都映心」、
「桂徳院殿法印権大僧都岳心」、
「英徳院殿法印権大僧都雄心」。
5代藩主上杉吉憲の墓、
4代藩主上杉綱憲の墓、
6代藩主上杉宗憲の墓、
7代藩主上杉宗房の墓。
4代綱憲は吉良義央の長男で、
母が2代定勝の四女であった為、
その血縁から無嫡の上杉家の家督を相続。
僅か2歳での藩主就任でした。
幼少期は家臣団らが藩を運営しますが、
成人後は風紀取締の強化、教学振興、
寺社の修築等を行っていますが、
華美好きで奢侈な部分も多くあり、
藩財政を圧迫させたとされます。
元禄15年(1702)に赤穂事件が発生し、
実父の吉良義央が赤穂浪士に討たれますが、
その影響からか翌年に隠居。
更にその翌年に42歳で死去しました。
5代吉憲は4代綱憲の長男に生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続。
享保4年(1719)に弟上杉勝周に1万石を分与し、
米沢新田藩を立藩させています。
6代宗憲は5代吉憲の長男として生まれ、
父の死去に伴い幼少ながら家督を相続。
叔父の新田藩主勝周の後見を受けますが、
僅か22歳で病死しました。
7代宗房は5代吉憲の次男で、
兄が病死した事に伴い家督を相続しますが、
彼も29歳の若さで病死しています。
上杉家は苦難の連続だったようで、
財政は永続的に火の車でした。
この為か以降の藩主の墓は無いようです。
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