奥の院墓地にある岩国吉川家の墓所。
毛利元就の次男吉川元春は毛利家覇業の為、
三男小早川隆景と共に「毛利両川」として活躍。
主に山陰地方の抑えを担当していました。
特に軍事面では卓越した能力を発揮し、
元春は生涯で76の戦を行ってますが、
一度も敗戦が無かったとされます。
毛利家が羽柴秀吉に臣従する事が決まると、
秀吉に仕えることを潔しとせず、
隠居して嫡男吉川元長に家督を譲りますが、
秀吉は元春の武勇を惜しみ出陣を要請。
甥の毛利輝元や弟の小早川隆景の説得により、
天正14年(1586)に九州征伐に参戦しましたが、
その陣中の小倉で病死しています。
「岩国吉川家墓所」。
鳥居付の玉垣内に並んだ吉川家の五輪塔群。
墓碑が読めず被葬者の確認は出来ませんが、
2代吉川広正以降の当主のものらしい。
元春の跡を継いだ元長は、
天正14年(1586)の四国攻めに参戦。
同年の九州征伐でも父元春と共に参戦し、
陣中で父の元春を亡くしました。
そして元長も翌年に陣中で病死し、
家督は元春の三男吉川広家が相続。
父や兄と同様に毛利家を支えましたが、
関ケ原の戦いでは徳川家康の勝利を予測し、
主家に内密で家康と内通。
毛利家の所領安堵の密約を条件に、
関ケ原本戦で毛利勢の動きを封じて、
東軍勝利に大きく貢献しました。
しかしその密約は反故にされてしまい、
毛利家は所領没収のうえ改易され、
防長2国を広家に与える沙汰が下った為、
驚いた広家は家康に毛利家存続を願い、
自らの恩賞を毛利家に与えるよう嘆願。
この結果毛利家の存続が許され、
毛利家は防長2国への減封処分となります。
広家は毛利家存続の立役者ではありますが、
毛利家の大減封を招いた遠因でもあり、
岩国3万石を与えられたものの、
支藩化も許されずに冷遇されました。
広家の死後は歴代当主が岩国を統治し、
度々独立を図ったり対立したりしますが、
幕末期には関係は改善しており、
長州征伐では幕府との周旋で活躍。
維新後に正式に岩国藩となっています。
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